約四十年前の昭和六年(一九三一)、宝塚からもそう遠くない明石市大久保の西八木海岸の崖下(がけした)で、直良信夫(なおらのぶお)は一点の人類腰骨を採集した。その腰骨についた粘土と同じ地層のなかからは、ステゴドン象など絶滅した動物の化石もすでに発見されていて、この粘土の地層は洪積世(こうせきせい)中期に比定できる年代をしめすものであった。そこから出土したこの腰骨こそは、のちに「明石原人」として日本列島での人類の出現について、問題を投げかける資料であった。しかし当時の学界は、直良がさきに同じ洪積層のなかから発見した石器とともに、これを黙殺し、そのまま人びとから忘れられてしまった。そして東京大空襲によって、この腰骨は焼失した。
人間の文化が、使用する道具によって、石器時代・青銅器時代・鉄器時代の三段階に区分し、この順序に発展したと説かれたのは、今から約一三〇年前のことである。その後、石器時代も、洪積世にあたる、土器のあらわれるまえの旧石器時代と、沖積世にあたる、土器の使用されるようになった新石器時代とに分かれることがわかり、その境界は約一万年前のことであったと考えられるようになった。いずれもヨーロッパ大陸でのことであった。
何万年というような古い時代の日本にも人類の生活していたことが認められるようになったのは、それほど古いことではない。第二次世界大戦の敗戦をむかえるまでの日本の考古学は、縄文(じょうもん)土器をつくりだした縄文時代から人類の活動がはじまるとするのが定説であった。そのため遺跡を発掘調査するにあたっても、縄文土器を含む地層よりも下の、厚い洪積層の土砂や火山灰土を掘りすすめるようなことはなかった。まえに述べた直良以前にも、何人かの人びとが日本の旧石器の存否について採集資料をもとにふれてはいたが、もう一つ確かな証拠をあげることができなかった。
直良が人類腰骨を発見して十数年たった昭和二十三年(一九四八)、東京大学に偶然に残っていたこの腰骨の複製模型から、それが直立歩行後まもない、北京原人に匹敵する古い人類のものであるとの見解が出され、「明石原人」と名づけられた。まもなく明石市の採集地付近で大がかりな発掘調査がおこなわれたが、出土地点がその後の海水の浸食によって失われたためか、なんら成果をあげることができなかった。
昭和二十四年、群馬県岩宿(いわじゅく)遺跡が発見された。洪積丘陵の切通しの断面で、厚く堆積(たいせき)した関東ローム層とよばれる火山灰土のなかから、石器がみつけられたのである。この火山灰土が少なくとも一万年以前に堆積を終えていることは、すでに知られていたので、発見された石器がそれ以前のものであることは確かであった。その後の発掘調査によっても、縄文土器を含む地層より下の関東ローム層のなかに石器を含むことがわかった。しかもこの層には土器がまったくみられなかった。これによって日本でも土器の出現するまえに、打ち欠いてつくった石器(打製石器)をおもな道具として使っていた時代のあることが認められるようになった。