まえにも述べたように、この時代は氷河期と間氷期とが交互におとずれ、それによって、海水面の上昇と下降がくりかえされていた時代であった。海水が陸地に深く浸入したり、広範囲にわたって干あがったり、また河川の浸食作用で深い谷を刻むこともあって、地形は現在の景色をみなれているわれわれには想像もつかないほど、荒あらしく、変化に富んでいた。
約三万年前のウルム氷期の間の温暖期には、西摂平野一帯を海水がひたし、川西市久代(くしろ)付近にまで浸入していた。現在の標高約三〇メートルの地域はすべて海面の下にあったことになる。長尾山系の南麓(なんろく)は波の打ちよせる海岸であったと思われる。そして気候は今よりわずかに涼しかったことが、出土した花粉の分析によって知られている。
やがて氷河期の最盛期に向かって気候が寒冷化するにしたがい、海水面は低下していった。海のなかにあった地域は陸となり、約一万八〇〇〇年前には海面は現在よりも一〇〇メートルほど低くなった。大阪湾はほとんど干あがり、石器の発見された加茂や朝日ケ丘は海岸からはるかに離れた山中にあたり、加茂の東を流れる猪名川は一〇メートル以上の深い谷をつくっていた。
ナイフ形石器のしめす年代は、このように気候の変動がはげしく、環境変化のいちじるしい時期にあたっていた。気候や地形の変化は、繁茂する植物に影響を与え、さらに食糧資源となる動物群にも当然大きな変化を与えた。石器が時期を追って変化し、組合わせが変わっていったのには、このような気候の変動にともなう動植物群の変化に対応しようとした、旧石器時代の人びとの必死の努力があったのであろう。
西摂地方一帯で発見されたこの時代の石器は、いずれも採集資料であるため、当時の生活を復元することはほとんど不可能に近い。全国的にみても、人びとの生活を伝える資料は少なく、動物あいての狩猟をおこなっていたことは確実であるが、そのほかのことについては不明な点が多い。住居も石がこいの炉がみつかる程度で、実態ははっきりしないが、おそらく痕跡(こんせき)を残さないほど簡単な小屋がけであったのだろう。