気候がしだいに温暖化する後氷期もその終末期には、木や骨の軸にはめこんで使われた、細石器とよばれるきわめて小さい石器と、有舌尖頭器とよばれる槍先形の石器が用いられるようになる。宝塚市では、有舌尖頭器が二点も採集されている。その一点ははじめに述べたように仁川高丸(にがわたかまる)の丘陵地の尾根でみつけられたものであり(五ヶ山旭が丘遺跡)、他の一点は市域の北端にあたる香合新田(こうばこしんでん)の畑のなかで採集された。図34のように形や大きさにちがいがあるのは、時期的な差によるものである。
この種の石器についてたいせつなことは、旧石器時代の終末に位置を占め、縄文時代との関連を探る手がかりになるというだけでなく、土器といっしょに出土する遺跡があるということである。しかしすべての有舌尖頭器が土器をともなうわけではなく、この石器が使われた時期でも、小型になる新しい段階になって土器がともなうようである。九州地方ではこれと同じことが細石器についてみられる。本州や九州に出土する最初の土器はみみずばれ状の粘土の突帯(とったい)のあるきわめて共通した土器であった。これらの資料は、わが国の土器の出現が旧石器時代の流れのなかでとらえられ、土器の出現について究明する手がかりになるものであった。
香合新田で採集された石器は、この土器をともなう段階の例に似ており、あるいはこの地域で最古の土器を発見することがあるかもしれない、という期待がある。宝塚の北部山間地は、南部の平野地域に比べて調査される機会が少なく、おくれた地域としてみられるきらいがあった。しかしこの種の石器が発見されて、南部地域と同じように、古くから人びとの活動の場となっていたことがわかった。