旧石器時代に比べて縄文時代には人びとの生活の範囲が広がり、とくに海浜への進出がめだつようになる。狩猟や漁撈(ぎょろう)、木の実をひろい、茎や根を掘って食糧としていたが、まだ自分の手で食糧を生産するまでには至っていなかった。
近畿地方では、縄文時代の遺跡が少なく、阪神間でも今まで断片的な資料が採集された程度で、住居跡など生活の場所を明らかにした例も、きわめて少ない。宝塚市の近隣では、芦屋市朝日ケ丘遺跡で、土器や石器とともに柱穴らしい遺構をみたが、近年ここでおこなわれた発掘調査によれば、住居のあったことをしめす痕跡はみられず、まだ生活跡をつきとめることはできなかった。神戸市大歳山(おおとしやま)遺跡も昭和初年から学界に知られ、出土した土器は大歳山式と名づけられて縄文時代前期末の標準資料として著名である。しかしここも土器や石器の出土がみられるだけで、住居跡など生活の痕跡はつかめていない。そこで、全国的な調査結果によって縄文時代人の生活をみよう。
人びとは生活の本拠地を湧水にめぐまれた台地のうえにかまえ、地面を浅く掘りくぼめた竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)に住んでいた。住居内には、石がこいをしたり土器を打ち欠いてかこったりした炉をつくり、明かりとりや暖房などに使っていたようである。竪穴式住居は、縄文時代早期からつくられるようになるが、まだムラとよばれるような住居群は構成されなかった。前期になると、平野にむかって張りだす舌状台地のうえに、中央に広場を設けその周囲にいくつかの住居を建て、ムラとしての機能をもつようになる。そして前期からのちには、人びとが一定の地域へ定着する傾向をしめしてくる。
生活をささえる食糧資源としては、野山にシカ・イノシシなどの獣や小動物を追い、木の実や根茎を採集し、海浜では内湾の砂泥中に生息する貝類や魚類を捕獲して得ていた。つまり自然の産物を最大限に利用していたわけである。このため地域によっては特色のある動植物を食糧にしていた。新潟県の山間部の遺跡にはツキノワグマやカモシカなどの獣骨が残されており、東京湾沿岸では、貝塚としてハマグリ・カキ・アサリなどの貝類が山のように残され、そのなかにシカ・イノシシなどの獣骨やタイ・スズキ・アジなどの魚骨も含まれていた。