近畿地方に縄文時代の遺跡がとくに少ないということは、まえにふれたが、自然環境や地勢的な条件から食糧がとぼしかったことが原因の一つにあげられよう。縄文時代の人びとがとくに好んで採取した貝類も内湾性の砂泥地(さでいち)がこの地方には発達せず、貝類の生息する地域や数に限りがあったようで、近畿地方には貝塚が少なく、その規模も小さい。
芦屋市朝日ケ丘遺跡では二〇〇点に及ぶ石鏃が採集されている。これは阪神地方の山地に今も数おおくいるシカやイノシシなどの動物を対象とする狩猟が生活の中心になっていたことを思わせる。しかしこれらの動物も一年を通して平均的に捕えることはできない。そのために大規模な集落を長期にわたってつくることができず、したがってはっきりとした住居跡を残せなかったのであろう。自然環境にじゅうぶんにはめぐまれなかったこの地方であるが、断片的に遺物が採集されている。宝塚市内でも、北部の香合新田や南部の安倉(あくら)地区での調査のときに、縄文時代の石鏃が採集されている。猪名川町でも同様の発見例があって、長尾山系北側の山間地域でも、縄文時代の狩人が獣を追っていたことが知られる。しかし、食糧を自分の手で生産するようになるまでは、安定した生活ができず、大きな発展ものぞめなかった。阪神間の縄文時代の遺跡がその内容をまだ明らかにできなくて、断片的な資料を採集する程度にしかないのも、そこに起因している。