縄文時代の終末期になると土器がそれまで台地上や丘陵上にみいだされたのとは異なり、沖積(ちゅうせき)地などの低地にみいだされるようになる。宝塚市の近くでは、尼崎市の猪名川川床・藻川(もがわ)川床がそれにあたる。その場所はつぎにくる弥生時代の集落の立地と同じであった。
ところで、晩期は土器・石器などの生活用具によって、東海地方を境として、東日本と西日本とに大別される。
単純な浅鉢と甕(かめ)がセットになっている土器や打製の石器など西日本に広く共通する生活用具のほかに、まえに述べたように遺跡の立地は弥生時代初期の遺跡の立地と合致すること、縄文晩期の土器分布地域に初期弥生文化がほぼ重複していることなどから、晩期にすでに原始的農耕生産が開始されたという考えもある。弥生時代の米づくりが北九州から東海地方に及ぶ広範な地域に短時日のうちに広がるのには、当然それを受けいれる素地がなければならない。すなわち自然の食糧資源にめぐまれなかった西日本の人びとが、いちはやく食糧を生産する方向へ生活を変えた可能性が、その素地としてじゅうぶん考えられる。しかし反面には、トチ・ドングリなどが土中に大量に貯えられていた例もあって、自然の資源になおたよる生活をしていたことも、また事実である。
この地域の人びとがとぼしい自然の資源にたよる不安定な生活から、食糧を生産する生活に確実に転換し、大きく発展するのは、つぎの弥生時代になってからである。それはまた縄文時代のこの地域の発展に障害となっていた沖積地が、人びとの生活をささえる生産基盤と変化していく時代を、やがてむかえるのである。