弥生時代の人びとの日常生活にとって、重要な容器であった土器は、簡単な文様によってかざられた壺(つぼ)や、わずかに文様のつけられた煤(すす)にまみれた甕、そして鉢・高坏(たかつき)がある。甕のなかには底に穴をあけて蒸し器として使ったとみられる甑形土器(こしきがたどき)もある。それぞれ大小のちがいはあるが壺・甕・鉢・高坏の四種類の土器が使用されるようになった。多くの遺跡から大量の土器が発掘されているが、器形はほぼこの四種類に分類されるほど、用途別の形の分化がすでになされていたのである。縄文時代晩期の土器が、およそ大小二つの型の深鉢に分けられるのに比べて、弥生時代の土器が大きく変化した様子をみることができる。
つぎに注目すべき遺物に、この時代にあらたにあらわれた木製品がある。農耕具としての鍬(くわ)と鋤(すき)がその代表である。打ちおろして土の掘りおこしに使う鍬は、鍬先の幅のひろいもの、細ながいもの、フォーク状に先端がわかれているものなど、作業の内容や土壌の状態によって使いわけがなされていた。この例にみるように、木製品もすでにその形態に分化をしめしていることがわかる。
西摂平野の遺跡では、木製農耕具を出土した例は少ない。昭和三十四年(一九五九)以来、四回にわたって発掘調査された上ノ島遺跡では、十数点の木製農具が出土している。こわれて小破片になっているものが多いが、いずれも鍬であった。形の明らかなもののなかには、鍬先の幅ひろいものと細ながいものとの例がみられ、さきに述べた鍬先の分類にあっていた。この上ノ島出土の鍬先は、材質がわかっていない。奈良県唐古(からこ)遺跡の例では、アカガシ・イチイガシ・シラカシなどを使っており、木製農耕具をつくるのに、木材のなかでも材質が堅くて強いカシ類をとくに選んでいる様子がわかる。唐古にはまたケヤキ・サクラ・クワなどの均質でくるいの少ない木材を利用した椀(わん)・鉢・高杯などの容器や杓子(しゃくし)も発見されている。木製高杯のなかにはロクロを使ったと思われる痕跡のあるものがあるといわれていて、木製品の用途による選材や加工技術は相当高度なものであったといえるだろう。
縄文時代から使われてきた石器にも、この時代になると新しいものが加わる。みがいてつくった石器(磨製石器)である。稲の収穫に使う石庖丁(いしぼうちょう)のほか、太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)・扁平片刃石斧・柱状片刃石斧・抉入片刃石斧(えぐりいりかたばせきふ)などの石斧類がそれである。和泉市池上遺跡や東大阪市瓜生堂(うりうどう)遺跡の発掘調査で、石斧を取りつける木製の柄が発見され、使用方法も明らかになってきた。これらの石器が木材の伐採や加工に大きな役割を果していたことは明らかであろう。鉄器も弥生時代から使われはじめたが、腐食したためにじゅうぶんな資料は得られない。ただ木製品の表面に残された鋭い削り痕から、金属器の使われていたことが証明される。
平野部に新しく形成された農耕集落では、生活の基盤となる水稲耕作に関連するいろいろな新しい道具があらわれた。いずれもそれぞれに組みあわされて、耕作から米の調理まで一貫した作業に使われる、きわめてたいせつな道具であった。このように種々の道具が作業の内容に応じて使われていたということは、畿内の弥生時代にはじまる水稲農耕文化がかなり高度なものであり、ほぼ完成された段階に達していたことを物語っているのではなかろうか。