米づくりには、気候・水・土壌など多くの要素が密接な関連をもち、それらが収穫量に及ぼす影響は大きい。
現在、水田は地下水との関係から、湿田・半湿田(半乾田)・乾田の三種に分けられる。半湿田は湿田から乾田への過渡的な状態のものである。地下水位の高い湿田は排水が不良で還元状態におかれるため、強グライ・グライ層とよばれ、土壌の色は青灰色をしめしている。これの水田化には給水よりも排水に重点がおかれる。乾田は湿田とは反対に、地下水の影響をほとんど受けず、土壌が酸化状態にあって、色も褐色である。これを水田化するにはじゅうぶんな灌漑(かんがい)用水の供給を必要とする。ひとくちに水田といっても土壌と地下水の関係によって、その開発には道具類・技術・労働力などの諸問題がからんで、沖積平野の全域をすぐに米づくりに利用する、というわけにはいかなかった。
かつて農林省が施肥改善事業のために、水田の土壌調査を各府県にわたっておこなったことがある。その調査の結果と古代遺跡との関係が研究されたが、それによると弥生時代以降の集落の遺跡は、土壌ときわめて密接な関係のあることがわかった。前期および中期前半の遺跡は地下水の高い強グライ・グライ土壌の地帯やそこに近い地帯に分布し、中期なかごろ以降の遺跡は、灰色土壌地帯にみられる。そして、灌漑用水の供給を必要とする褐色土壌地帯には古墳時代以降の遺跡が分布している。弥生時代の前期から中期はじめごろまでは、強グライ・グライ土壌の地帯に湿田の開発がおこなわれ、畿内地方では中期なかごろ以降に、半湿田と考えられる灰色土壌地帯の開発が進み、その範囲を広げていった。収穫量の多い褐色土壌地帯の開発はさらにおそく、鉄製農耕具の普及する古墳時代に入り、ようやく試みられるようになった。
初期の水田開発が地下水の高い地域におこなわれたことは、木製農耕具を用いて排水路を築く程度の、それほど多くの労働力を必要としない段階にあったということである。半湿田の灰色土壌地帯への進出は、のちにみるように、労働力の集中化が可能になり、鉄製刃先を取りつけた農耕具が使われはじめた時期にあたっている。
前期の水田跡として明らかな岡山市津島遺跡は、微高地に囲まれた地下水位の高い低地にあり、中期はじめの滋賀県大中ノ湖(だいなかのこ)南遺跡でも、湿地に木杭を打ちならべた水路や水田跡が発見されている。このように前期から中期のはじめにわたる水田が湿地帯に開発されたということは、さきにみた土壌の分類と集落の遺跡が深い関係のあることを証明するものであった。
西摂平野でも弥生前期の遺跡は、標高五~一〇メートルの低地にあって、強グライ・グライ土壌の分布地帯かそれに近いところにつくられていたことが明らかにされている。
上ノ島遺跡で出土した植物の花粉分析や種子の調査によると、そこは地下水位の変化のはげしい湿潤地であった。田能や勝部の遺跡もまた河川によってつくられた微高地にあり、周囲に低湿地や沼沢のあったことが確かめられた。広い平野のなかで人びとは水田になりそうな土地をみつけ、芦の原を切りひらき、石斧でつくった木の鍬や鋤を使って湿地を起こし種をまき収穫を待つ。年ごとにこれをくりかえし生活の根をおろしていった。
はじめに図38にしるした弥生前期の集落の遺跡が、このような湿潤なところに立地するのは、当時の食糧生産にかかわる技術と道具とによっていたのである。