宝塚市内の土壌調査がまだおこなわれていないので、土壌と遺跡の関係をじゅうぶん明らかにすることはできないが、今まで市内では弥生前期の遺跡は、発見されていない。長尾山系の南に広がる広大な土地は、武庫川と猪名川のほかに長尾山系や六甲山系から流出する河川の堆積作用による扇状地であり、大部分が褐色土壌でおおわれている。前期の農耕集落の遺跡が発見されず、今後もみつかる可能性が少ないと考えられるのは、その土壌に原因があるのではなかろうか。それとともに、長尾山系や六甲山系を背景としてそこから流れる河川によってつくられた、北から南へ、西から東へゆるやかに傾斜する地形によって、洪水の被害を受けやすい反面、乾燥する土地であった。このため、弥生時代前期の段階だけでなく、河川の整備や灌漑施設がつくられるようになる古墳時代まで、実に長い間、水田耕作地として使われることは、おそらくなかったのであろう。
ともあれ、このようにして、縄文時代までほとんどかえりみられなかった平野部の低地帯は、開拓の鍬が打ちおろされてから今日まで、人間生活の場所として中心的な位置を占め、利用されてきた。「米づくり」のはじまりによって、人びとの土地に対する価値観は大きく変わった。