もたらされた河内の土器

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ところで、このような低地の新しい集落は、どんな人びとによってつくられたのだろうか。この問いに直接答えてくれる資料はない。さきに、縄文時代の終わりになると土器の発見地が、弥生時代の集落遺跡とほぼ同じところになる様子をみた。猪名川川床・藻川川床では、縄文時代終末期の土器が弥生時代の土器といっしょにみられた。上ノ島遺跡では、弥生時代の土器に縄文土器の影響をしめすものがみつかっており、縄文時代以来先住していた人びとも、あらたなムラづくりに参加していたことがうかがわれる。
 日常生活に欠くことのできなかった土器は、こわれやすい反面、また容易につくることができるので、時期によって形・文様・製作技法などに変化を生じ、時代区分や地域的なまとまりを研究するときの基礎的な資料となっている。土器の製作にあたっては、住んでいる集落周辺の手ぢかにある粘土を使っていたようで、地域によっては粘土のなかに含まれている鉱物の特徴などから、一見して製作地域を判別することのできる場合がある。
 畿内でも、生駒山の西にひろがる大阪中南部の河内(かわち)平野でつくられた土器は、黒雲母(くろうんも)・金雲母を含み、茶褐色に焼きあがる特徴をもち、西摂平野の淡白色の土器とは、一見してちがいがわかる。このような河内の土器が畿内一円の集落にもたらされていたことが、最近明らかになりつつある。しかも地域と時期によって、搬入された土器の形・数量にちがいのあることも知られてきている。
 西摂平野にもこの河内の土器がみられる。前期には壺を主とし、わずかに甕が加わる。中期になると、壺・鉢が主で、後期になって壺・甕・鉢・高杯などほぼ全器種がそろう。西摂平野の前期遺跡で発見された河内の土器は、その集落がつくられたころにもたらされたものであることが、注意をひく。そこで、今までくわしい検討を経て明らかになった上ノ島・田能・勝部の遺跡についてみていこう。
 弥生時代の前期は、土器の研究によって、古・中・新の三段階に区分されている。この区分によれば、上ノ島遺跡は「古」から「中」の段階に、田能・勝部の両遺跡は「中」の段階にそれぞれ集落がつくられた。これらの遺跡で発見された河内の土器は、上ノ島では肩の部分に段のある古段階の壺や甕があり、田能と勝部では「削りだし突帯」とよばれる、表面を削りとって文様を浮き彫り風に表現した中段階の土器が認められている。弥生時代の西摂地方には集落がつくられた当初から河内の土器がこのようにもちこまれていたことがわかる。勝部や田能で出土した土器は、その胎土から、河内のなかでも平野部ではなく、生駒山麓でつくられたものであることも指摘されている。
 河内の土器が各地の遺跡でみられることについては、各地の集落が美しくかざられた土器を求めた結果であるとか、土器を容器として河内の物産がもちこまれたとか、これまで種々の意見がある。また河内の土器が美しくかざられた壺や鉢を中心としているところから、土器そのものが貴重な交易品であって、その対価には海浜に面する西摂地方からの海産物を考える新説や、あるいは、土器が移動した背後に婚姻関係を考える説も発表されている。
 ところで、西摂地方でもっとも南の海岸寄りの上ノ島遺跡では、炭化米や鍬・石庖丁など農耕具の出土からみて、水田耕作をおこなう農耕集落であったことが知られるが、海浜での漁撈活動をうかがわせる遺物は、わずかな鹹水産(かんすいさん)貝類をのぞいて、ほかにはなにもみいだされていない。このことは、西摂地方の弥生前期集落形成期にみられる河内の土器は、単に物資の交換という現象によるものではなく、西摂地方に集落がつくられるのにさいして、河内からの影響を直接的に受けていたことを推測させる。