集落を画する大きな溝

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弥生時代にはじまる平野の集落は、水稲耕作をおこなうために、とくに低湿地に接してつくられた。なかでものちのちまで引きつづき営まれる中心的な集落には、大きな溝を掘っている場合がある。田能遺跡では集落の西辺に幅三メートル、深さ一メートル、長さ四〇メートルの溝があった。勝部遺跡でも、幅約二メートル、深さ〇・八メートルの溝が三六メートルにわたってみられた。いずれも遺跡全域の発掘がおこなわれていないため、はたして集落を囲む形になるかどうかわからないが、勝部遺跡のように、二本の溝の間に、弥生時代前期の遺構が集中している事実は、この溝が単なる排水のためのものではなく、集落を周辺から画し防御する役わりをもって掘られたものであることをしめしている。新しい土地にあらたな集落を築いた人びとにとって、この大きな溝が生活を守るよりどころになっていたにちがいない。