猪名川の左岸、千里丘陵の西端にある池田市宮ノ前遺跡は、住居跡のほかに多数の墓が発掘されて、当時の墓制を知るうえで貴重な資料を提供した。ここは古くから知られた遺跡であったが、近年住宅街となり、遺跡の内容はほとんど明らかにされることなく月日を経過した。
昭和四十四年(一九六九)中国縦貫自動車道の建設をまえに発掘調査がおこなわれた。調査の結果、ここは弥生時代から奈良時代まで人びとの生活の場であったことが知られた。弥生時代の遺構には、円形の竪穴式住居跡と、墓があった。住居は一時期に二~四棟ずつで、それぞれ間隔をおいてまばらに分布していた。
ところが同時に発見された墓は、種類も数量もひじょうに多かった。その位置が台地の西南端にあたっているので、この集落の墓域であることが想定される。土器を利用した壺棺墓・甕棺墓、長方形の墓穴を掘っただけの土壙(どこう)墓、土壙に木棺を埋めた木棺墓、さらに周囲を四角に溝でくぎった方形周溝墓とよばれる墓などが発掘された。
墓はそこに埋葬された人の集落内における生前の地位や、集落の人びとの死者に対する考えかたなどを探る重要な手がかりとなる。
方形周溝墓は、弥生時代になって新しくあらわれる墓である。一辺一〇メートル前後の溝を四角にめぐらし、その内側に遺骸を埋葬する土壙を設けた墓の一種で、周囲の溝のなかに死者へ供えられたとみられる土器がしばしばみられる。最近日本各地でこの種の墓が発見され、弥生時代の社会の構造や状態をしめす資料として注目されている。
宮ノ前遺跡の方形周溝墓は、溝のなかに供えられていた土器によって、弥生時代中期もはじめごろにつくられたものであることが判明した。西摂地方ではもっとも古いものとされている。付近では和泉市池上遺跡で発掘された前期後半の方形周溝墓がより古い。
方形周溝墓の中央部には、墓壙が一基だけあるもの、二基あるもの、五~七基あるものなどがあって、埋葬された人の数はかならずしも一定していない。しかしここに埋葬された人びとが、当時集落を構成したすべての人たちでないことは、方形周溝墓の周囲に、なんら特別な標識のない土壙墓や木棺墓がひじょうにたくさんあることによって、明らかである。
方形周溝墓とその周囲に多数発見された土壙墓や木棺墓とのちがいは、周囲を溝でくぎり、供献した土器がみられるか、そうでないかという点にある。同じ墓域内に埋葬されながら、特別な施設を設けることのできた人と、それのできない人たちとの差があったことをしめしている。
ところで、方形周溝墓には、一基の墓壙だけあるもののほかに数回の埋葬がおこなわれたり、ときには壺棺・甕棺など幼児の埋葬がおこなわれたとみられる例もある。これらの例によって方形周溝墓は特定の一人物だけを埋葬する墓であるというよりは、その人物に直接つながる幼児を含めた家族を埋葬する、家族墓としての性格をみることができよう。したがって方形周溝墓に埋葬された人は、土壙墓や木棺に埋葬された人びとのうえにたって、指導する立場にあった有力者とその家族と想定される。農耕がはじめられ、やや生活が安定しかけたころから、早くもこのような人が特別にくぎられた墓に埋葬されていたことを、池上遺跡の例から知ることができる。
宮ノ前遺跡の西北、猪名川右岸の伊丹台地上にある川西市加茂遺跡に同様の状況が認められる。昭和四十九年(一九七四)におこなわれた調査によると、東西六〇〇メートル、南北二五〇メートルの地域に土器が分布し、遺構の存在することが判明した。それまでにも過去数回にわたって調査され、中期なかごろの竪穴式住居跡や土壙墓・壺棺などとともに、方形周溝墓一基が検出された。一辺約九メートルの溝が方形にめぐらされていた。また時期はすこしおくれるが、豊中市勝部遺跡では、木棺墓の周囲をL字形に区画する溝が掘られていたり、墓群の南側に溝を掘って区画をしていた。
このような埋葬例によって、ここに葬られた人は集団内の有力者とその家族であったということが理解される。またこの型式の墓が西摂各地にみられるのは、各集落がほぼ同じ程度の発達をとげていたことをしめすものであろう。