集落が有力な指導者によってひきいられていた弥生時代中期には、集落の祭りに「銅鐸(どうたく)」とよばれる青銅の祭器が用いられていた。西摂平野から六甲山南麓にわたる地域には多くの銅鐸が発見されている。今まで全国で発見された銅鐸は三五〇個以上にのぼり、その大半が、西は中国・四国から東は中部地方にかけて各地にみられる。単独に一個が出土するほかに、二鐸・三鐸あるいは十数鐸がまとめて埋蔵されていた例もあった。出土地の多くは、住居や墓地からは遠い丘陵のうえや山腹など、生活区域外の地点である。土木工事やその他の偶然の機会にみつかったことが多く、使用された年代や目的について、諸説紛々とした状態であった。しかも銅鐸の発見は古く、約一三〇〇年前にさかのぼるが、すでに当時用途も目的もわからなかったことが古文献によって知られている。しかし近年の研究は、銅鐸が銅剣・銅戈(どうか)・銅鏡をともなって出土する例のあること、鐸身に鋳だされた文様に、弥生式土器に共通する文様のあることなどによって、銅鐸は弥生時代に用いられたものであることを明らかにした。またなかには、青銅製や石製の「舌(ぜつ)」とよばれる振子をともなっているものがあり、さらに銅鐸の内側の下端に、内部につりさげられた舌と接する突帯がめぐらされ、それがすり減っている鐸もある。銅鐸がじっさいに鳴らした鐘であるということも、これらのことによって明らかになった。そしてやがてこの青銅の鐘は表面の絵画や文様から推して農耕に関係する祭りの道具(祭器)であったとも考えられるようになった。
ところで、各地から多数出土している銅鐸は、すべてが一時期につくられ、使われていたわけではない。またその機能、果していた役わりにも時期によって変化があって、すべての銅鐸を一様に考えることはできない。銅鐸の変遷はその形や大きさ、文様にもとづいて、さまざまに考えられてきたが、ここではいちおう銅鐸のつり手「鈕(ちゅう)」をもとにした分類・編年にしたがう。それによれば、銅鐸は最古(菱環鈕(りょうかんちゅう)銅鐸)・古(外縁付鈕銅鐸)・中(扁平鈕(へんぺいちゅう)銅鐸)・新(突線鈕銅鐸)の四段階に分けられ、最古の銅鐸は弥生時代前期後半にあらわれるという。
西摂平野を中心とする千里丘陵から六甲山南麓の地域には、現在のところ一一カ所、計二五鐸が出土しているが、最古の段階の銅鐸はみられない。銅鐸を祭器とした祭りがこの地域にはじまるのは、つぎの古段階からである。すなわち豊中市桜塚・伊丹市中村・芦屋市打出・神戸市森、同じく桜ケ丘でそれぞれ出土した銅鐸が古段階にあたる。つぎの中段階の銅鐸は、西宮市津門(つと)・神戸市生駒・渦ケ森・桜ケ丘の各地で発見されており、新段階のものは、箕面(みのお)市如意谷(めいだに)・川西市満願寺および栄根(さかね)にみられる。多数出土しているこの地域の銅鐸もすべてが同じ一時期につくられたものではなく、それぞれ異る時期につくられていることがわかる。しかも古・中段階の銅鐸が猪名川の中流域から六甲山南斜面の地域にいたる海岸寄りの南部地域に点在しているのに対し、新段階の銅鐸が、西摂平野の北部に限られているのも、注目される事実である。また銅鐸の変遷する過程でもう一つ注目される現象が指摘されている。銅鐸は一般的に小型から大型への変遷をたどるが、その過程は漸進的なものではなく、最後の新段階で急激に大きさを増す。しかも表面の文様は浮彫風に立体的に鋳出され、内面下端の舌とふれあう突帯のないものまで製作されるようになる。そして、その大きさから、それ以前の銅鐸のように、つるして鳴らすことが不可能になったとみられる。このような銅鐸の変化をとらえて、前者を「聞く銅鐸」、後者を「見る銅鐸」とにわける。この立場にたって、西摂平野の銅鐸をみると、南部の銅鐸が「聞く銅鐸」、北部の銅鐸は「見る銅鐸」となる。墓の場合にもみたように、同一の地域に属してほぼ同様の発展段階にあると考えられた西摂平野の集落にもたらされた銅鐸に、このように段階的な差や、銅鐸そのものにちがいがみられるのは、いかなる理由によるのだろうか。また銅鐸はどのようなきっかけで、この地域に運ばれたのであろうか。
銅鐸の鋳造には専門的で高度な技術を必要とし、また原材料の入手などの面からみても、個々の集落で独自につくれるものではない。最近茨木市東奈良(ひがしなら)遺跡の発掘調査のさいに、弥生式土器の包含層から銅鐸の鋳型が発見された。砂岩製の銅鐸の鋳型は、姫路市名古山(なごやま)遺跡につぐ二度めの出土例である。東奈良遺跡の鋳型でつくられた銅鐸には、豊中市桜塚鐸と善通寺市我拝師山(がはいしざん)鐸がある。鋳型のきずと銅鐸に鋳だされたきずあとから、まず我拝師山鐸が鋳造され、おくれて桜塚鐸のつくられたことも明らかにされた。銅鐸の鋳型と、それにより鋳造された銅鐸が遠くへだたる地域から出土する事実は、銅鐸が個々の集落で鋳造されたのではなく、ある地域でつくられたものが、他の地域へ運ばれたことをしめしている。
まだ鋳型はみつけられていないが、同じ鋳型からつくられたことが明らかな銅鐸(同笵(どうはん)銅鐸)が一一組、二八鐸ある。一組をなすもっとも多い例には、五鐸一組がある。これはさきの銅鐸の編年にしたがうと、古段階と中段階にだけみられる。古段階は九組二四鐸、中段階は二組四鐸である。それぞれはなれた地域から出土していて、東奈良遺跡の鋳型によって明らかになったように、これらの場合も、ある地域でつくられた銅鐸が、各地の集落へもたらされたことを物語っている。
とくに注意しなければならないのは、一組のなかで少くとも一鐸が畿内で発見されている例が、古段階で七組に及んでいることである。銅鐸の分布、鋳型の出土などを考えあわせると、これらの銅鐸が畿内でつくられ、他の地域に運ばれたということはじゅうぶんに推測できる。中段階の銅鐸にも二組の同笵銅鐸がある。一組は東海地方に、他の一組は中国・四国地方にある。また銅鐸には形態や表面に鋳造された文様に、地方的なまとまりをもつものもある。
銅鐸がある地域でつくられて他の地域に運ばれていることや、ある地域に特定の文様をもつ銅鐸が分布することについて、二通りの解釈がある。まず、最初は畿内でつくられて各地に運ばれていた銅鐸が、それをつくる専門の工人が移動することによって、東瀬戸内・遠江(とおとうみ)など地域の実情にみあった文様・形態をとり、独自の姿をしめすようになると主張して工人の移動によるものとする説と、銅鐸は畿内中心勢力の政治的意図のもとに各地へ配布されたものである、とする説である。そのいずれが正しいかとの決着は今すぐにはつけられない。ともかくこの問題は、単に銅鐸そのものに限らず、日本の弥生時代を探る重要な鍵をひめているといえるだろう。