銅剣・銅鉾・銅戈と祭り

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銅鐸と同様に注目される青銅器に、銅剣・銅鉾(どうほこ)・銅戈がある。弥生時代の青銅製の武器であったこれらは、もと実用品として朝鮮半島から日本に運ばれ、所有した個人の墓に副葬品として埋納された。ところが国内でつくられるようになると、武器としての実用性は失なわれ、形は扁平となり大型になる。そして住居や墓地などの生活地からはなれた場所で出土するようになり、さきにみた銅鐸と同じような傾向をしめすようになる。この現象は武器としての実用性をなくした青銅器を、祭器とするようになった集団のあったことを意味するだろう。銅鉾は対馬から北部九州に、銅剣は瀬戸内海に面する中国・四国地方に分布し、銅戈は九州と大阪湾沿岸にみることができる。このうち銅戈が神戸市保久良(ほくら)神社や桜ケ丘で、銅剣もしくは銅戈と思われるものが西宮市甲山山頂付近で発見されており、銅鐸の祭祀とは異なる青銅器を祭器として祭りをおこなった集団が、この地方にも存在したと想定される。銅剣と銅鉾は分布する状況からみて、内海航路に従事した集団の祭器と、外洋航路に主に従事した集団の祭器であったとする見解もある。祭器のちがいが、その生産や生活基盤のちがいによるものとすれば、西摂平野の西部地域にみられる青銅器はどのように考えられるだろうか。

図46 西摂地方の銅鐸・銅剣・銅戈分布


写真36 銅鐸のうつりかわり
(左)外縁付鈕銅鐸(豊中市桜塚出土 原田神社所蔵 神戸聞新社提供)
(中)扁平鈕銅鐸(神戸市渦ケ森出土 東京国立博物館所蔵 神戸新聞杜提供)
(右)突線鈕銅鐸(川西市満願寺出土 安澄権八郎所蔵 大阪城天守閣寄託)


図47 銅剣・銅鉾・銅戈
1,2銅戈 3銅剣 4銅鉾


 武庫川右岸の南面する地域や六甲山南麓の地域は、海岸線との間に、それほど広い平野はない。ここは武庫川や六甲山系からの河川による扇状地で、さきにもふれた西宮市での山陽新幹線工事にさきだつ調査によって明らかにされたように、武庫川をはじめ河川の氾濫をしばしばこうむる平野であった。弥生時代の中期になって、標高二〇~三〇メートルの西宮市上ケ原の台地上に新しく集落がつくられる。そのうちの越水遺跡からは漁撈具の一種である土錘(どすい)が多量に出土していて、海岸に近い台地上に集落をつくり、農耕に代わる漁撈生活をしていた集団がここにあったことを想定できる。この地域はのちに「津門の水門(みなと)」「武庫の水門」として知られるように、瀬戸内海の海上交通の重要な拠点となる。保久良神社や甲山山頂付近という青銅器の発見地は、六甲山系から南にのびた尾根の南端や、特異な形の甲山という、大阪湾の船上から目につきやすい、まさにかっこうの目標地点にあたっている。武庫川右岸の海岸に接した地域には、銅鐸を祭る農耕集団と、海上の仕事に従事した銅剣や銅戈を祭器とする集団とがあったことを推定し、生活基盤の相違によって、異なる祭器をもつ集団が共存していたと考えられる。