西摂平野につくられた諸集落は、この地域内だけで自給自足の生活を送っていたわけではない。出土した遺物が語る各地との交流は、今日われわれが想像するよりはるかに広範囲にわたっていた。
それをもっともよく物語るのが土器である。弥生時代前期の土器が遠賀川(おんががわ)式土器と総称されているほど、北九州から西日本にかけて分布するこの期の土器には、共通する特徴がみられる。田能遺跡出土の土器に認められた貝殻の腹縁によってつけられた貝殻文は、北九州から本州西端地域に特徴的にみられる文様であり、また中期はじめごろの瀬戸内系の形態や文様をもつ土器など、瀬戸内海をなかだちとした西方との交流がさかんであったことをうかがわせる。しかしそれ以上に密接なつながりのあったのが河内であった。河内から運ばれた土器によってもわかるように、河内地域との交流は、弥生時代のほぼ全期間を通じて、西摂地方全域にわたってみられ、そのつながりの強さを物語っている。
地域間の交流を語る資料には土器以外に石器の原材料がある。弥生時代の前期・中期を通じて、主要な労働用具であった石器は、西摂平野の遺跡でその材質を明らかにされた例をみると、身近で採集できる石を使ってつくられたものはほとんどなく、いずれも他の地域から入手した石を使っていた。大半の打製石器の材料となっているサヌカイトは、奈良県と大阪府の境にある二上山で産出し、磨製石器に使われた片岩類は、和歌山県の紀ノ川流域で採取されている。これらの遠い地域で採取された原石が西摂の各集落に運ばれ、加工され、使われたのである。もちろんこれらの原石を西摂平野で求めることは期待できなかった。サヌカイトは旧石器時代以来、主要な石器の原材料となっており、産地とのルートがすべて弥生時代になってあらたに開かれたものばかりではなかった。そのサヌカイトの場合、小円礫や十数センチメートルの剥片(はくへん)にして西摂地方へ運ばれており、最近明らかになりつつある瀬戸内地域のように二〇センチメートルを越える大型のものはまだみられない。いずれにしても産地との交流がどんな方法でおこなわれ、どんな様子であったのかは、今後に残されたひじょうに興味のある問題である。