そのころの宝塚

154 ~ 159 / 532ページ
西摂の各地で、銅鐸・銅剣・銅戈の祭りがおこなわれ、ひろい地域にわたる交流のみられるころ、宝塚市の地域はどんな様子であったのだろうか。
 長尾山系の南にひろがる伊丹段丘は、現在植木畑・蔬菜(そさい)畑・水田としてゆたかに利用されている。ここは地質的には武庫川・猪名川そして長尾山系から流れる幾筋かの川による複合扇状地で、地形は複雑である。数回の遺跡分布調査や安倉地区区画整理事業のためにおこなわれた調査においても、弥生時代の明確な遺跡はまだみつからず、ただこの台地の北東端にある川西市加茂遺跡が知られているにすぎない。この地域に遺跡が発見されないのは、おそらく地形的に水田化がむずかしかったことによるものと考えられる。
 一見平坦な面をもっているこの地域は、明治年間の地形図をみると、意外に小さな凹凸(おうとつ)があり、そのくぼみは旧川筋の痕跡であることがわかった。それは北から南へほぼまっすぐにたどることができ、伊丹段丘を刻んで南の尼崎の沖積地にむかって流れている。また昆陽(こや)池を中心に東西方向に陥没地帯があり、今は昆陽池をはじめ多くの溜池(ためいけ)となっている。長尾山系から南へ流れる河川は、この陥没地帯によってむきを西に変えたり、陥没地帯を越えて南へ向かっていたことがわかる。川の流れはここで一時せきとめられ、洪水のときには北部一帯が冠水するなどの被害も生じたであろう。長尾山系を出た水は、傾斜面をしばらくはよどみなく南下し、やがて陥没地帯に阻まれて多量に砂礫を含む土を堆積する。この台地上に弥生時代の集落がつくられなかったのは、このような自然の条件に制約されたからにほかならない。
 安倉地区の調査によって、天王寺川西岸地域のきわめて限られた面積であったが、グライ土壌の発達する低地のあることが認められた。しかしこの地域も北からの河川の影響を受けやすく、また山間部を蛇行(だこう)してきた武庫川が平野部にぬけ出た地点にあたるため、集落をつくることができなかったものと思わせる。弥生土器は発見されず、須恵器(すえき)や土師器(はじき)が散布し、安倉高塚古墳があるということは、古墳時代になってはじめてやや本格的な集落がつくられたことを想定させる。
 このように宝塚市域南部の伊丹台地上には、弥生時代の遺跡として明らかにされた例がない。
 しかし六甲山の東麓や長尾山南麓では、古くから遺物を採集している記録がある。昭和二、三年ごろ、現在の宝塚ゴルフ場付近の一帯で弥生時代の遺物が採集されたと伝えられるが、その資料も出土地点もくわしく記録されないまま戦災で焼失したということである。支多々川(したたがわ)・逆瀬川(さかせがわ)・仁川などによって六甲山系から花こう岩質の砂礫が運びだされた扇状地は、弥生時代の米づくりには適地ではない。
 長尾山麓の式内社売布(めふ)神社の境内で、青銅製の鏃(やじり)が採集されている。銅鏃は西摂平野では豊中市勝部・尼崎市田能・芦屋市会下山など三遺跡でも発見されている。売布神社の銅鏃は四・五センチメートルという大きさで他の三遺跡の出土品に比べてもっとも大きなものである。白緑色で、表面の銹化(しゅうか)がすすみ、磨滅もいちじるしいが、つぎの旧清(もときよし)遺跡とも関連して貴重な資料である。

写真37 売布神社境内採集の銅鏃
(京都大学文学部所蔵)


図48 旧清遺跡の土器文様


 売布神社北方の山中にあった旧清遺跡は、昭和四十五年(一九七〇)、現清澄寺の前身にあたる中世の伽藍(がらん)遺構の発掘調査にさいし、偶然に発見された。現清澄寺から谷一つ東の尾根上にあり、伽藍遺構よりさらに高い標高一八〇メートルの地点である。弥生中期なかごろから後期にかけての土器片がここで採集された。これは特別な遺構から検出されたものではなく、尾根をおおう土層のなかからみつけられたもので、すでに磨滅していた。この点から、出土地点がなんらかの理由によってかき乱されたか、あるいは周辺の他の地から運ばれたのではないかと考えられている。
 ところで、旧清遺跡の立地条件は、平野部の集落に比べて、きわめて悪い。これはこの遺跡がのちに述べるような特別な性格をもっていたからであろう。このようにして古くからの採集資料や最近の発掘調査によって、市内の一部に弥生時代の遺跡がたしかに存在するであろうと推定され、宝塚市域も弥生時代の人びとの生活とまったく無縁な地域であったのではない。沖積平野部の地域と様子が異なるのは、洪積台地のうえにあるこの地域が地形や土壌の条件に恵まれなかったからである。
 宝塚市の北部地域、西谷地区では弥生時代の遺跡や遺物は今日までまったく発見されていない。しかし西谷地区の西に接する武庫川上流の三田(さんだ)盆地には、弥生時代の中期にはじまる三田市天神遺跡・上野遺跡・深田大山遺跡などがある。この付近でもっとも広いこの盆地に集落がつくられるのは、弥生中期のことであった。天神遺跡から出土した土器は、西摂の平野部とのつながりがみられ、石庖丁も出土しているところからこの地域でもやはり農耕生活を送っていたことが考えられる。
 兵庫県立農業試験場の調査によると、武庫川上流の三田盆地およびその東の青野川流域・黒川流域・羽束(はつか)川流域・波豆(はず)川流域は、いずれも灰色土壌と褐色土壌とに区分される土壌型で、初期の農耕に密接な関係をもつグライ土壌の分布は、山間のごく限られた狭い面積にしかみられない。六甲山地と北摂山地とによって、南部の平野部とへだてられているこの山間地域は、その地理的条件や土壌的条件から、西摂の平野部にみられるような農耕生活の発展のしかたをせず、平野部の農耕がいちおう安定をみたのちの段階になって、平野部の一部の人びとがこの地域にあらたな集落づくりを試みたのであろう。その後においても、北部でもっとも広い三田盆地でさえ、大集落はつくられなかった。

図49 三田盆地の土壌分布


 宝塚市域のなかで、細ながい谷あいの切畑(きりはた)・玉瀬(たまぜ)・境野(さかいの)・大原野(おおはらの)・長谷(ながたに)・下佐曽利(しもさそり)・上佐曽利あるいは波豆の地域に、弥生時代の遺物や遺跡が発見されないのは、その開拓が容易でなかったからであろう。まして当時の農耕具や技術では、一定規模の集落の生活をささえる生産力が期待できなかった。本当の意味で開拓の鍬が入れられ、この地域が歴史に本格的に再登場するのは、やはり古墳時代に入ってからのようである。