弥生時代中期になって、集落が平野部や周辺の丘陵上だけでなく、山間の盆地にもあらたにつくられた様子をみてきた。ところで、中期のなかごろになると、六甲山南斜面の標高一〇〇~二〇〇メートルの尾根上にあらたに特異な集落が築かれた。その出現はまさに、忽然(こつぜん)ということばがふさわしい。六甲山地と大阪湾との間に、細ながく東西にひろがる海岸平野には、この尾根上にあらたにあらわれた集落よりさかのぼる時期の遺跡は、まったくみあたらない。つまりそれまでは人びとの生活の場としてほとんどかえりみられない地域だったのである。
中期に入り、平野部とその周辺の丘陵上につくられた集落は、前期以来の農耕生活が安定して、増加した人びとの分村であろうとみてきた。台地や丘陵上につくられた集落は、いずれも低平地に接し、水田とはわずかに二〇~三〇メートルほどの比高差がある程度で、主要な生産活動の場は、台地下の沖積地にもとめられる。
ところが六甲山南斜面に忽然とあらわれた集落は、これまでの集落とは立地条件がちがっていて、今までみてきたような、単なる分村とは異なる要素をもっていることがうかがわれる。花こう岩風化土壌地帯の六甲山系から派生する尾根上に、これらの特異な集落は立地する。その土地で農耕生活を営むために居住地を選んだとは、とうてい考えられないところである。この新しい集落を「高地性集落」とよんで、平野部の集落とは区別している。この種の高地性集落には、東から長尾山系の宝塚市旧清、六甲山系の西宮市五ケ山、芦屋市城山・会下山(えげのやま)、神戸市坂下山・金鳥山・保久良神社・荒神山・赤塚山・伯母野山(おばのやま)・牛小屋山・布引丸山などの諸遺跡がある。これらの高地性集落に共通する点は、おそくとも弥生時代中期後半にあらわれること、中期で絶える集落と後期までつづく集落のあること、その位置がすでに述べたように、一例を除いてすべて、六甲山系から南に派生する尾根上で、標高一〇〇~二〇〇メートルの地帯にあること、しかも高度差だけの問題ではなく、その地点が南に広がる大阪湾と瀬戸内海、また東西にのびる平野部をみわたせることなどをあげることができる。
とくに芦屋市城山遺跡にみるように集落の立地が尾根上の奥まった最高所にあるのではなく、東西方向と南の海をみおろす尾根の先端付近にある。その位置はまさに瀬戸内海を航行する船をみはる地点であった。高地性集落が平野部の集落とはちがった別の基準で、選地をおこなっていることを物語っている。瀬戸内海に面した岡山・広島・山口・愛媛・香川の各県でも、高地性集落が発見されている。いずれも瀬戸内海に突出する半島の山頂にあって、それぞれ集落のつくられた時期や立地の条件に共通するところがみられる。さらに畿内でも河内・和泉・紀伊に高地性集落があって、瀬戸内海を中心にして、内海を囲むような形で存在している。当時の瀬戸内海は、早く弥生文化を九州から東へ伝えた道であり、青銅製品の原材料をもたらした回路であり、大陸文化を運んできた航路であった。人や物の交通路としての瀬戸内海はさらに淀川・大和川を経路として、畿内の内陸部に直接つながる重要な幹線であった。