高地性集落があらわれる弥生時代中期は、土器が櫛描(くしが)き文様によってかざられる時期であり、そして河内・大和の簾状文(れんじょうもん)のある土器を中心とする地域と、断面三角形の突帯文のある土器の周辺地域というように、土器や石器に地域的なまとまりがみられる時期にあたる。ところがこうした地域的なまとまりを越えて、広く各地に共通して石製武器がさかんにつくられてくる。石鏃・石槍・石剣は大きくなり、鋭くより有効な形となり、しかも大量につくられる。
弥生前期の尼崎市上ノ島遺跡では、石鏃一七、石錐(いしきり)六、石庖丁一一、石斧九、打製耕具七、敲(たた)き石二、砥石(といし)四、計五六点の石器を出土している。石鏃以外の石器を工耕具類として一括すると、それらが全体の八〇%を占め、石器全体のなかで武器の占める割合は少ない。田能でも同様で、前期の石器のうち工耕具類が七五%を占めている。遺跡全体が発掘されていないことや、武器のなかには竹や木や骨を使った腐食しやすい材質のものもあったと考えられ、この比率についてはいちがいに断定はできないが、いちおうの傾向をしめすと考えてさしつかえない。
弥生前期にはじまり中期後半にとだえる豊中市勝部遺跡では、石鏃・石槍・石剣の武器類と工耕具類の比率は、四八・三%と五一・七%で、武器類の割合がふえる様子をあらわしている。川西市宮川石器館に収蔵されている加茂遺跡の石器は、五〇・七%と四九・三%というように武器類が工耕具類を上まわる状態をしめす。ここではとくに柳葉形(やないばがた)の石鏃が最も多く、重量も金属製の鏃に匹敵するようになる。中期になって石製武器がこのように発達してくるのは、畿内だけでなく、瀬戸内海沿岸の各地にもみられる現象であった。もっとも石製武器はまず畿内でさかんにつくられるようになり、瀬戸内海沿岸の地域ではそれよりややおくれてつくられている。
石製武器が、形にも大きさにも発達をみせ、量もまたふえてきたということは、弥生時代の社会が、とくに中期以後、大きな緊張感に包まれていたことを伝えているようである。豊中市勝部遺跡で発掘された、中期なかごろから後半にかけて埋葬されたと思われる十一基の墓のうち、第二号墓に葬られていた人の遺骸には腰骨と肋骨(ろっこつ)に石鏃が射こまれており、第三号墓では腰に石槍を受けたままの姿で葬られていた。石製武器が発達し、遺骸に石鏃や石槍が射こまれていたという、これらの事実は、それまでほぼ同一の歩調で発展してきた弥生時代の農耕集団が、地域ごとのまとまりをしだいに強めてゆこうとする過程で、集落の間にかなりはげしい争いがあり、ときにはその争いに武力の用いられたことを物語っている。
高地性集落は、単純な農耕集落として分村したのではなく、集落間の争いにさいして重要な役わりをもつものであった。瀬戸内海をみおろし、広く平野部をのぞむ山頂上に位置を占めているのは、高所からのみはりや平野部への連絡を兼ねた、のろし台というふうな役わりをもっていたのである。高地性集落がつくられるのには、政治的・軍事的な要求が背景にあったものと考える。独立して自由に土地を選びそこに定着したという性格の集落ではなく、平野部の大集落の利益を守るために、その意志によってつくられた集落であったと考えられる。高地性集落の遺跡からは、石庖丁・蛸壺(たこつぼ)形土器・土錘・石錘が出土している。農耕や漁撈によってある程度食糧を自給する生活であったとしても、付近には集落の人びとをじゅうぶん養える耕地が認められない。母ムラとしての集落が平野部にあり、そこからなんらかの援助のあったことを想像する。