魏志倭人伝と弥生時代の社会

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ここで思いだされるのは、中国の史書にみられる記事である。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に、「其の国、本亦(また)男子を以て王と為(な)し、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年」といい、『後漢書東夷伝』には「桓(かん)・霊(れい)の間、倭国大いに乱れ、相攻伐し、歴年主無し」としるし、その原因は明らかにしていないが、紀元後百数十年ごろ、倭国を大きくつつみこんだ争乱のあったことを伝えている。弥生時代の中期なかごろから後半にかけて高地性集落がつくられ、石製武器の発達していくことは、これらの記事と対応して、集落間にはげしい争いのあったことを語っている。
 東大阪市瓜生堂遺跡は、二メートルから二・五メートルにわたって土砂と粘土が交互に堆積していることから、中期から古墳時代にかけて大和川のはげしい氾濫をたびたび受けて消滅したことが明らかになった。当時、気候が温暖・湿潤となり、それにつれて海水面が上昇し、瓜生堂やその周辺は農耕のできない沼沢地になっていった。これは土層の観察や出土した植物花粉の分析結果によって裏づけられている。同一平野部にあった他の集落でも例外ではなかったであろう。
 気候の変化による平野部集落の動揺、安定した土地を求めての移動、他の地域への侵入など、不穏な社会の状況が、『魏志倭人伝』や『後漢書東夷伝』にしるされた「倭国大乱」の端緒になるのではないか、という一つの新しい考えが、最近出されている。
 今後、各地の遺跡がとだえていった様子を発掘調査によって具体的に明らかにして、はじめて証明される問題であるが、こうした自然条件の変化による原因も含めて、農耕社会が発展してゆくなかで、限られた水田にできる土地の争奪や水利をめぐる争いをきっかけとする小地域間の抗争が、多くの統廃合をくりかえしていった。有力な集団が他の集団を統合していこうとする段階で、瀬戸内海沿岸の全域に争乱の広がってゆく過程を、高地性集落の出現が、如実に語っている。この争乱のなかで、当然、高地性集落に対して平野部の大集落が主導的な立場にあったことは、容易に想像できる。ときには勝部遺跡の集落のように、石鏃や石槍によって命を落す多くの人びとを出し、壊滅的な被害を受けて、やがてとだえてゆく集落もあった。そして、こうした争乱を経てゆくなかで、クニとよばれるような大きなまとまりをもつ地域社会があらわれてくるのであった。
 旧清遺跡にみる集落も、弥生時代中期なかごろにつくられた高地性集落であった。この時代の、この大きな歴史的変動に対して、宝塚市域もまたけっして無関係ではなかった。
 『魏志倭人伝』はさらに「すなわち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼(ひみこ)と曰(い)う。鬼道(きどう)に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす」としるし、『後漢書東夷伝』も「一女子有り、名を卑弥呼と曰う。年長じて嫁せず、鬼神の道に事え、能く妖(よう)を以て衆を惑わす。是に於て、共に立てて王と為す」としるしている。争乱ののちに、鬼道(呪術)につかえる一女子をともに立てて王とし、一つのまとまりをつくっていったことをあらわしている。弥生時代中期の遺物には、小地域の地域色がきわめて濃い。中期後半から後期にかけては、なお地域色を残しながらも、斉一化してゆく様子が認められる。争乱のあと、いちおう安定した段階をむかえる当時の社会の状況が反映しているのであろう。