低地につくられるあらたな集落

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弥生時代後期になると、前期以来引きつづいてきた平野部の集落、中期に誕生した周辺の台地上や山間地域の集落のほかに、あらたにつくられる集落がある。西摂平野ではとくに海岸寄りの南部地域につくられた。しかもこの集落のなかにはのちの古墳時代までつづくものがあるいっぽう、それまでつづいてきた集落の中に後期で終わるものもある。弥生時代後期は、各集団の間にあらたな再編成がされた時期といえるかもしれない。尼崎市水堂古墳下層遺跡・大井戸古墳下層遺跡、西宮市西宮神社遺跡など、武庫川の河口に近い下流域にも、後期の遺物が発見され、ようやくこの付近にも、生活の場を求めて、人びとが進出してきたことがしられる。こうした南部の地域に、この時期の集落が進出する背景には、ようやくこの地域の水田化が可能になったことと、大幅に鉄器が採用されたことが考えられる。大阪湾に面する西摂平野南部の陸地化は、武庫川の堆積作用と大阪湾の潮流がつくった西から東への砂州によって、その後背地の陸地化が促進された結果による。遺跡の分布する状態からみて、当時の海岸線は現在の国鉄東海道線に沿うあたりまでであったようである。
 新しい土地に進出した新しい集落はつぎの時代への息吹きを思わせる。後期になると人びとの生活用具に変化が生じてくる。もっともいちじるしい例が、土器と石器であった。
 前期・中期の土器は整形のときの痕跡をていねいに消し、そのうえを文様でかざっていた。その文様が後期にはみられなくなった。後期の土器には内外面に整形のあとがそのまま残され、ヘラで表面をみがいた土器は壺や高杯に限られるようになった。その相違があまりにも大きいので、後期になって土器の製作技術がおとろえたのではないかと疑われるほどである。しかしこの大きなちがいが生じた理由については、つぎのように考えることができよう。土器を一個々々華麗にかざるてまをはぶいて、土器づくりの作業工程を簡単にし、大量の土器をつくろうとする方向に変わったというのである。

図50 弥生後期の遺跡


 後期の土器は、底から三分の一または二分の一の高さのところで、粘土をつぎあわせている。この部分で粘土が盛りあがっていたり、整形のときのはけめが、そこを境に方向を変えていたりしている。またこわれる場合にもこの部分に沿って割れめが走る。これは土器一個をいっきにつくりあげたからではなく、はじめに底からこの部分までつくっておき、時間をおいて上半部をつぎたしてつくりあげたのである。土器を一個ずつ完成していくつくりかたから、下半部をいくつかつくり、そののち上半部をつぎつぎにつくりつけてゆく方法への変化と考えている。しかも多くの土器が叩き目とよばれる整形痕を残し、壺の一部を除いて、文様をつけた土器はなくなる。
 叩き目のある土器は畿内一円から瀬戸内の一部にもみられ、中期後半以降の土器の共通性はいよいよ強くなり、斉一化へ進んでいく。
 しかしこのような全般的な傾向のなかでも、技法や器形に地域的なちがいも残されている。後期の河内・大和には共通する記号が描かれている長頸壺が多いが、それは西摂地方ではみられず、代わって極端に細ながい頸をもつ土器があらわれる。つまり中期なかごろに比べて斉一性をもつとはいいながら、地域によるちがいもあったわけである。

図51 弥生後期の甕形土器