生活用具の変化

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弥生時代後期になって土器にいちじるしい変化のあらわれたことをみてきた。ところがさらに重要な変化は、それまで主要な道具であった石器にもあらわれてくる。弥生中期にそのあとを絶つ勝部遺跡では、前期・中期をあわせて七〇〇点以上の石器が出土し、中期に繁栄した加茂遺跡では二千数百点の石器が採集され、中期なかごろからあらわれ、後期には廃絶する尼崎市武庫庄の集落遺跡からは、三〇〇点以上の石器が出土した。それにひきかえ後期にはじまる尼崎市若王寺(なこうじ)遺跡では石斧一点、下坂部遺跡では石器がみられず、中ノ田遺跡は石斧二点を出土しただけである。石器の出土は激減し、まさに消滅する寸前にあるといえよう。かつて大量につくられ使われてきた石器がこのように消滅していこうとする状況には、鉄器の大はばな採用がかかわってくる。
 鉄器は腐食しやすいため今日まで残っている資料がひじょうに少ないが、全国の出土例から、おそくとも中期の末ごろには鉄の刃先をつけた農耕具が使われたことが明らかになった。芦屋市会下山遺跡から出土した鉄器には、のみ・〓・斧などの工具、鏃や釣針もあって、漁撈にまで鉄器を使っていたことがわかる。強籾で鋭利な鉄器は木製・石製の工耕具に代わって多方面に活用されたであろう。とくに鉄製の刃先を取りつけた農耕具は、水田の開拓や灌漑施設の建設に大いに用いられて、集団の生活をささえる耕地の拡大に大きく貢献したことであろう。後期になって集落が南部海岸近くまで進出するのは、河川の堆積作用によって米づくりのできる土地がふえるとともに、鉄製農耕具の使用が、水田には不適と思われた土地を開拓可能にしたからであった。このような鉄材や鉄器をいちはやくもつことのできた集団が、他の集団より優位に立ったことはいうまでもなかろう。鉄材や鉄器は国外からその多くが運ばれたことであろうが、国内でも鉄材がつくられたということも、じゅうぶんに想像できる。

写真40 会下山遺跡の鉄器(芦屋市教育委員会提供)