再びつくられた高地性集落

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平野部の集落が広い土地を耕して米づくりにいそしむ後期になると、中期の高地性集落のなかには、とだえてしまう集落と、規模をさらに広げて大きな空堀や石ぐみを築く集落がみられる。瀬戸内海をみおろす位置に、中期から引きつづき、神戸市荒神山遺跡、芦屋市会下山遺跡があり、西摂平野を眼下におさめる位置には、西宮市五ケ山遺跡、宝塚市旧清遺跡がある。後期になって平野北部に川西市鼓ケ滝遺跡、池田市五月山遺跡があらわれ、中期からの遺跡とともに、平野をとりかこむような分布をしめす。中期の高地性集落が瀬戸内海に面した西日本一帯につくられたのに比べ、後期には畿内とその周辺に限られるようである。

図52 弥生後期の土器


 なかでも川西市鼓ケ滝遺跡は、猪名川が細ながい峡谷をぬって多田盆地から西摂平野に流れこむ手まえ、久安寺川との合流点にあたる左岸の標高九〇メートルほどの台地上にある。ここでは弥生時代後期の土器片が採集されているだけで、集落の規模や内容などは明らかでない。しかし遺跡の位置は、平野部から猪名川をさかのぼる人の動きや、多田盆地の人びとの動きをつかむのには、まさに絶好の位置にあたる。当時の多田盆地の人びとの活動を明らかにする資料は今のところみられないが、この地や上流の地域はとくに船の建造に使われた木材の伐採地としてのちに注目され、文献にもしるされている地域である。
 高地性集落がこの時期につくられるのも、中期の場合と同じような理由が認められよう。そして畿内とその周辺に限って、つくられるのは、畿内がのちに政治の中心としての位置を占めるようになることを考えれば、中期後半にいもおう安定をみた畿内の諸集団が、再び政治的な緊張にあったことを思わせる。『魏志倭人伝』は卑弥呼の死を述べたあと、「さらに男王を立てたが、国中が服従せず、こもごも誅殺(ちゅうさつ)して、当時千人を殺した」としるしている。この段階の緊張が『魏志倭人伝』のこの記事とどのようにつながるのか、まだ明らかではない。しかし中期なかごろから後半にかけて発展してきた集落は、大規模な抗争を経て、より大きなまとまりをみせ、いったんは安定した段階をむかえた。ところが平野部の開拓がさらに進み、より高い生産力をもつと、再び争いあう状態をしめすようになったと推定される。
 平野部の集団がどの程度の規模をもち、集団の間にどんな関係があったのかまだよくわからない。また集団内の首長とよばれる有力者の地位についても不明である。しかしこの時期につくられた墓が田能で発見されて、若干被葬者の地位についてふれることができる。西摂平野では中期初頭からつくられる方形周溝墓は後期にもつづく。その形式にはなんら変化がなく、特別新しい施設も加えられていない。田能ではこの形式の墓のほかにコウヤマキでつくった木棺墓が発見されている。とくに遺跡の西辺に設けられた二基の墓は、内部に水銀朱をぬり、碧玉の首飾りと白銅製の腕輪が副葬されていた。他の墓には、特別な装身具を副葬しておらず、二基の墓の被葬者は、中期の方形周溝墓の被葬者たちの系列の延長上にあって、集団のなかで他の人びとを指導する立場にあったと考えてもよかろう。しかし、のちの古墳のように、他の人びとと墓地を異にしたり、規模や内容ですぐれた墳墓を築くということはまだなかった。集団の人びとと同じ墓域に葬られたこの期の首長と思われる人たちは、古墳時代の首長たちとはまだまだかけはなれた存在であったのである。