銅鐸の祭りの終わり

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後期になってみられる土器や石器など生活用具の変化は、この時期の生活の変化でもあった。
 銅鐸もまた変化する。西摂平野では、すでにみたように、銅鐸を中心とする祭りが中期にはじまり、後期になって平野の北部で新しい銅鐸の祭りがおこなわれるようになる。箕面市如意谷遺跡、川西市満願寺遺跡・栄根遺跡で発見された銅鐸がそれである。これらの銅鐸はそれまで南部地域にもたらされていた銅鐸とは大きなちがいがあった。装飾的に鋳出された表面の文様や周囲につけられた飾耳(かざりみみ)など、視覚に訴える要素の強くなった新しい銅鐸は、すでに音を発することがなく、つるすことさえできなくなり、置いて「見る銅鐸」に変化していた。
 しかしこれらの銅鐸もまもなく埋められる運命にあった。銅鐸は豊作を祈り、収穫を感謝する、集落全体の祭りに用いられた祭器であった。そしてふだんは集落から離れた場所に埋められたようである。ところがこのたびの埋蔵は例年とはちがっていた。永久に埋められ、再び掘りだされることはなかった。埋蔵の場所も、山頂や山腹のすそのほか、平野部の場合もあるが、神戸市桜ケ丘にみるように、低地からの視野をさえぎる場所もあった。西摂では一鐸だけ埋められている例が多く、豊中市桜塚遺跡の二鐸、神戸市桜ケ丘の一四鐸と銅戈七口という出土例は特例である。
 共同体の祭りに使用された銅鐸が、なぜこの時期に、しかも永久に埋められなければならなかったのだろうか。また桜ケ丘のように、多数の銅鐸が一括して埋められるのには、どんな事情がそこにあったのだろうか、これにはつぎのような解釈がある。
 桜ケ丘遺跡を境にして、その東方にはほぼ一~四キロメートルごとに銅鐸が出土しているのに、逆に西方では神戸市垂水区の投上遺跡の銅鐸出土地点まで約二〇キロメートルの間、まったく銅鐸を出土していない地域がある。弥生時代の遺跡がこの地域にもありながら、銅鐸出土の空白地となっているのは、「今まで個々のムラに別れて生活をつづけた人びとが、そのムラのわくを捨て、より大きな規模の集団を構成するにいたった」ことによって、桜ケ丘にこれらのムラの銅鐸が集められたというのである。銅鐸の埋蔵ということは、それまでムラのなかでおこなわれた共同体の祭りが、この段階になっておこなわれなくなったからであろう。
 鬼道に事える卑弥呼の共立によって倭国大乱がいちおうの結着をみたように、この時代の集団の長には、その性格に司祭者としての一面をみることができる。銅鐸をもって祭りをつかさどっていた人が、銅鐸を埋蔵することによって、どのように変化していったのだろうか。桜ケ丘遺跡にしめされたより大きな集団への統合は、どのような過程をたどっておこなわれたのか。銅鐸の埋蔵はそれをもつ集団の自発的な意志による行為だったのか。それとも外部から強い力が働いたのか。銅鐸の永久的な埋蔵による祭りの終わりは、まさに土器や石器の変化とともに、人びとの生活の大きな変化でもあった。銅鐸埋蔵という事実が、「倭国大乱」とどんなかかわりをもっていたのかは明らかでないが、集団間の統一への過程がけっしてスムーズでなかったことはじゅうぶんに想像できよう。後期に再び高地性集落のつくられる地域があり、銅鐸の終わるこの時期の生活に大きな変化があることによってそれはしめされる。田能遺跡で後期になって掘られた大きな溝や、この時期の土器が数百個体も沼沢地にむかう傾斜地に投げすてられた状態で発見されたことなどは、後期における乱の状況を物語る平野部での集落の一例ともいえよう。

写真41 見る銅鐸
箕面市如意谷出土(箕面市役所保管)