弥生時代のはじめ、小規模な農耕集落によって開拓された西摂平野も、やがて耕地の拡大やムラわけによってその開拓は大きく進んだ。そして後期にみられる生活の変化もこの地域に及んでいた。その間にはげしい抗争をはらみながら、中期以降、統一への歩みが急速に押しすすめられたことも、遺跡や遺物から推測される。しかし西摂地方での統合がどのようにおこなわれたのか、この点はほとんど明らかになっていない。西摂地方のように銅鐸が一カ所に集められず、各地に個々に埋められた地域と、桜ケ丘のように、多数の銅鐸や、祭祀の形態を異にすると思われる銅戈まであわせて一括埋蔵していた地域とを比べると、すでにこの時期に異なった歩みがはじまっていたといえよう。西摂地方では一カ所に銅鐸を集中するほどの強い勢力が早く誕生しなかったことは、猪名川という同一水系にあって、きわめて共通した条件のもとで営まれた農耕生活に、その素因が求められはしないだろうか。