弥生時代を通じて宝塚市の市域はまだ大きな役わりをはたすことはできなかった。地理的・地形的な制約を受けて、広大な沖積平野がなかったからである。海岸平野部から隔たっており、長尾山系によって北部への広がりが阻まれていたこと、南部の伊丹段丘はこの時代の農耕に、地形的にも土壌的にも不適当であったこと、北部の山間地域も、細ながい谷間で、土壌の条件もよくなく、高い生産がのぞめる平野部に乏しかったことなど、この時代に集落をつくるのには、多くの困難な条件がつきまとっていた。このようないくつもの悪条件をのりこえて人びとの開拓の手が加わるのは、つぎの古墳時代を待たなければならなかった。