伝承・説話の性格

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伝承(でんしょう)というのは、古くからあった習慣・風俗・信仰・伝説などを受けつたえていくことをいい、またそのようにして受けつたえられた事がらも伝承という。それは説話(せつわ)といい変えてもよいであろう。
 説話は各地方に共通するものもあれば、地方々々独特なものもある。しかしそのいずれにせよ、それはまったく架空(かくう)のつくりばなしとはいえず、その背後にはその地方々々の生活や風土が強くにじみでている。したがって歴史、とくにある地方の人びとの生活の歴史を考察していこうとする場合、説話や伝承は貴重な材料となるのであるが、ただ大きな弱点が存在することは否定できない。それは伝承や説話がそのまま歴史事実とは考えられないこと、またそうした伝承や説話の成立した年代がはっきりしないということである。時代をはっきりさせ、その時代のさまざまな事がらを事実にもとづいて明らかにしていこうとする歴史の場において、説話・伝承を材料とするのにためらいが生じるのはそうした理由による。
 それならば歴史の研究のうえで、こうした材料はまったく使用できないのかというと、そうでもない。ある時代のことを研究しようとして、ある説話を使用していくとき、その説話を収めている史料が研究しようとする時代に近ければ近いほど、その説話は研究しようとする時代の生活の状態などを知るうえで、一つの役割をはたすことは否定できない。たとえば、八世紀におけるある地方の人びとの生活を研究するにあたって、その地方の説話を使用しようとする場合、その説話を収める史料が八世紀のものであれば、それはその時代のその地方の状態を知る材料として効果をもつことになろう。また五・六世紀の状態を知ろうとする場合、五・六世紀の史料がなければそれを収めるものが八世紀の史料であってもかなりの効果をあげることができるであろう。もちろん説話の内容をそのまま歴史事実とすることは無理で、その取りあつかいにはじゅうぶん注意しなければならない。その点への配慮を慎重にすれば、説話は有効な材料として使用できるのである。そこでこうした前提に立って説話・伝承を使用していくことにしよう。
 ところで、ここで考察しようとするのは、四・五世紀のころの宝塚市域を含む摂津(せっつ)地方に生活していた人びとの姿なのであるが、それを語る説話を含む史料として現在残っているものは、その成立年代がみな八世紀以後のものばかりであり、そこにみられる説話の内容もすべてをそのまま歴史事実とみなすわけにはいかないものが多い。しかし、ある面でこの地方の人びとの生活状態を知る手がかりとなるものがあることは確かである。その説話とは『日本書紀(にほんしょき)』や『摂津国風土記(せっつのくにふどき)』などに収められているものであるが、今、それを取りあげて考察を加えてみたい。
 まず『摂津国風土記』にしるされている説話から紹介してみよう。これは常陸(ひたち)・播磨(はりま)・出雲(いずも)・肥前(ひぜん)・豊後(ぶんご)のいわゆる五風土記と同じ種類の風土記であるが、この五風土記のように完全に近い状態では残っておらず、現在までにその大部分は失われ、ごくわずかな部分ではあるが、いわゆる逸文(いつぶん)のなかに宝塚地方周辺のことをしるしているものがある。それは能勢(のせ)郡地方に関するつぎの説話である。

図53 宝塚市周辺における大化前代の国・県図


   昔、神功皇后(じんぐうこうごう)が、新羅(しらぎ)を攻めるために筑紫国(つくしのくに)に赴く前に、多くの神がみを川辺郡内にある神前(かんざき)の松原という所に集めて祭り、遠征の成功を祈願した。このとき、能勢郡の美奴売(みぬめ)山に住む美奴売神もやってきて、この神の住む美奴売山の杉の木を切って船をつくり、それに乗って攻めたならばきっと成功するにちがいないと告げられたので、皇后はさっそくそのお告げの通りにした。はたして皇后はそのお告げの通りに新羅を降伏させることができたので、帰還すると松原の海岸に美奴売神を祭って、その船を神に献上し、この地を美奴売と名づけた。
 この説話については、登場する人物、すなわち神功皇后も実在していたかどうか疑われているくらいなので、話の内容をそのまま史実と認めることはできない。しかし、このような話が、摂津国川辺郡地方にいいつたえられていることは、この地方の由来を語った説話として注目されるとともに、またこの地方が、筑紫方面へ船出する基地港をもっていた事実をしめすものとみることができるであろう。
 神前松原はいまの猪名(いな)川下流の尼崎市神崎の地であり、いま神戸市灘区にある敏馬(みぬめ)神社は、もとこの神崎の地にあったのが、のちに移されたのであろうといわれている。また美奴売山は猪名川町の北部能勢町との境にある三草(みくさ)山をさすものと考えられている。このようにみていくと、この説話の舞台は猪名川流域で、宝塚地方とはあまり関係がないようであるが、この猪名川が、古くは武庫川と一つに合流して海に注いでいたらしい形跡があり、この二つの川は川辺郡および武庫郡地域における生活を考える場合に、ともに重要であることを知る必要があろう。そこでつぎにこの二つの川の状態を合わせ語った説話として『住吉大社司解(すみよしたいしゃしげ)』のなかにみえるつぎのような記事を取りあげてみよう。

写真42 神崎橋から神崎方面をのぞむ(尼崎市)


写真43 能勢町から三草山(古代の美奴売山)をのぞむ