為奈(いな)川はその源流が有馬郡と能勢国の北のあたりの奥山にあり、その上流は二つの川になっている。東の川を久佐々(くささ)川というが、この川は山のなかを多く通りぬけて南に向きをかえている。もう一方の西の川は美度奴(みとの)川といって、美奴売山のあたりを流れてから南に流れる。この両川は宇禰野(うねの)のあたりで一つに合流して為奈川となる。為奈川は昔この地に山直阿我奈賀(やまのあたえあがなが)というひとが住んでいたところから阿我奈賀川といっていたが、いつのまにかなまって為奈川とよぶようになった。この為奈川に住吉大神は男神の姿となってあらわれ、上流の山から宮城をつくるための材木を流しはこばせていた。ところがこの為奈川には女神が住んでいた。この女神は男神をいとしく思い、妻になりたいと望んだが、この西を流れている武庫川に住む女神も同じように男神をいとおしく思うようになった。すると為奈川の女神ははげしく嫉妬(しっと)し、武庫川の女神を大きな石で打ちたおし、さらにその川に生えていた芹草(せりぐさ)をみなひきぬいてしまった。そのため為奈川には大石がなく、芹草が生えており、武庫川には大石はあるが芹草がない。この両川は一つに合流して海に注いでいる。
この説話をしるしている『住吉大社司解』は、『住吉大社神代記(すみよしたいしゃじんだいき)』ともいい、むしろこのよびかたの方が一般的なので、以下は『神代記』で統一しておきたい。この『神代記』はその奥書に、天平(てんぴょう)三年(七三一)七月五日の日付をしるしている。この日付がそのまま認められれば、八世紀前半の史料ということになるのだが、その内容や体裁などにいろいろと疑問があって、その成立はむしろ平安初期までさがるとみられている。ただ説話などについては、細かいことばや字の使い方に問題はあっても、それにしるされている内容はあとになってつくりあげられたものではなく、古くからの伝承をだいたい忠実にしるしていると考えてよさそうである。
ところで、『神代記』にしるされる話からみて、猪名川と武庫川の女神の争いの話は、この両川がたびたび洪水(こうずい)を起こしていたことを女神の争いになぞらえて物語っているのではあるまいか。そうとすると、近接する両川はこの地域に住む人びとの生活にとって、きわめて大きな意味をもっていたものと考えることができるであろう。まして下流になって合流していたことが事実とすれば、なおさらのことと思われる。おそらくこの地域は、汗と泥にまみれながら作物をつくっても、長雨や台風などによって河川が増水すると、人びとがこれまで努力してつくった堤防を壊し、あるいはのりこえて濁流があふれ、作物に大きな被害を与えるといった状態だったのであろう。この地方の人びとはこれらの河川の洪水により、農耕生活をおびやかされていたのであり、それがこうした説話を生んだと理解される。
つぎに宮城造営のため為奈川を使って材木を流しはこばせたという話は、さきに紹介した風土記の場合とあい通じるものがあり、この地方の生活の一つを特徴づける話として興味深いものがある。
『摂津国風土記』にみえた、能勢郡美奴売山の杉の木で船をつくった話や、『神代記』にみえる宮城造営のため為奈川を使って材木を運搬する話から推測すると、その背後の猪名川の上流、今の宝塚市の北部および川西市の北部から猪名川町さらに能勢町にかけての一帯は、昔からうっそうとした森林に囲まれていたと想像されてくる。その周辺に開けたわずかな平地に人びとは住み、その地を開墾して田畑をつくり、食糧を確保していくとともに森林の利用もおこなっていた。人びとは上流の山林から木材を切りだし、生活に必要な資材とする一方、猪名川を利用して切りだした材木を下流に運び、下流地域の人びとと交易、つまり物と物との交換をおこなっていたと考えられる。そしてこうした状態は、武庫川の場合も同様だったといえる。あとで述べるように、この地方に住んでいた人びとのなかに、山林の管理をしていたと思われる氏族がみえることも、この地方の木材の重要性を裏づけるものであろう。