古代の生活圏

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『神代記』には、こうした猪名川や武庫川の話のほかに、つぎのように為奈川を説明した箇所がある。
   川辺郡の為奈山は別名を坂根山といい、為奈川、御子代国(みこしろのくに)の境にある山や、羽束(はつか)国の境に及ぶところ、およそ川辺・豊島(てしま)郡内にある山はすべて為奈山とよぶ。
 この為奈山の説明やさきに紹介した『神代記』の話のなかに、川辺・豊島・有馬の郡名のほかに、御子代国・羽束国・能勢国などという名称がみえていることに注意されるのだが、これと同様な記載は、『日本書紀』の神功皇后摂政元年の箇所に収められている説話のなかにもみられる。それはつぎのような内容のものである。
   神功皇后が新羅を討って帰国したとき、皇后の船が難波(なにわ)をめざして進んできたところ、急に船が海上でぐるぐるまわりだして進むことができなくなってしまった。そこで務古水門(むこのみなと)にもどって占ってみると、天照大神(あまてらすおおみかみ)が自分の荒御魂(あらみたま)を皇居の近くに祭ってはならない、広田国に祭れと語っているとお告げがでた。また稚田女尊(わかたひめのみこと)は自分を活田長峡国(いくたのながさのくに)に祭るように、事代主尊(ことしろぬしのみこと)は長田国に祭るようにとのお告げであったので、皇后はそのお告げのように祭ったところ船は無事に進むことができた。
 この説話は、神社の鎮座に関する縁起(えんぎ)伝説の一種であって、そのまま歴史事実ではないが、この話のなかに水船の停泊地として務古水門がみえるとともに、広田国・活田国・長田国というさきの『神代記』の武庫国・羽束国などと同様な地域名がでてくるのに注目されよう。務古水門についてはのちにもふれるので、ここでは国の字のついた地域名について考えてみよう。
 郡という地方行政区域は、律令制が成立してから設けられた国のしたの行政区域であるから、この郡という呼称が使われるときの国は、この地方なら摂津国でなくてはならない。ところが御子代国は武庫国の意味であろうし、羽束国は不明であるけれど、有馬郡東南部にある羽束山付近一帯の地をさしていると考えられるので、これらの国名を使用している地域は、摂津国内の武庫郡の一部や能勢郡・有馬郡にあたる地域をさすことになろう。さらに広田国はのちの武庫郡広田郷にあたる地域であったろうし、長田国・活田国はそれぞれのちの八部(やたべ)郡長田郷・活田郷にあたる地域であったと考えられる。そうとすればこれらの地域を国としるすのはのちの国郡制の場合の国を語るのではなく、当時の人びとが生活する地域、いいかえればこの地域の人びとの生活圏をしめしていると考えられてくるのではなかろうか。つまり武庫国というのはのちの武庫郡全域をさすのではなく、武庫郡の地域から武庫川の東岸を除いた地域と考えられ、むしろ東岸一帯は『神代記』にいう川辺郡や豊島郡域に含まれるものとみられる。
 また能勢国も、和銅(わどう)六年(七一三)九月に川辺郡から独立してできた能勢郡をさすのではなく、それよりも広い地域を含み、猪名川の上流およびその支流の地域一帯ではなかったかと考えられてくる。そして羽束国は羽束川が南流して千刈(せんがり)ダムに流れこむ地域一帯、すなわち、今の三田(さんだ)市の東北部を中心として、宝塚市の北部の地域も含まれる範囲をしめしていたものと考えられてくる。そして『神代記』にいう武庫国の西南に、『日本書紀』にいう広田国があり、さらにその西南に活田国・長田国があったということになろう。一方、武庫の北に有馬があり、その東北に羽束が、そして羽束に東接して能勢、その南が川辺、さらにその東に猪名川をはさんで豊島といったぐあいに、いくつかの生活圏が隣りあっていたということになる。いうまでもなくこうした想定は、『神代記』や『日本書紀』の記載にみえる国や郡の名に一つの意味があると考えてのことであるが、こうした記載がのちになってつくりあげられたものであったとしても、このような生活圏が四・五世紀ころの摂津地方に存在していたことはじゅうぶん考えられる。