生活圏内の人びとの生活

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これらの生活圏は地域的な広さに大小はあったのであろうが、たがいに隣りあい、それぞれが外への広がりをみせて他の生活圏と活発に接触し、交易もさかんにおこなわれていたであろう。すでに述べたように、猪名川や武庫川を利用して上流の木材を下流に運んでいたことが推測されるが、こうした状態の背後には、上述のようないくつかの生活圏の深い交流や接触があったと思われる。上流の地域では木材のほか山の幸を下流の地域に、下流の海岸地域からは海の幸が上流の地方に運ばれるということも多かったであろう。さらにその接触は、より大きな一つの生活圏をしだいにつくりだすようになっていったとも考えられてくる。

写真47 武庫川の上流(武田尾付近)


 こうした生活圏に住む人びとは、そのなかでまたそれぞれが小さな共同体をつくり、たがいに協力しあいながら農耕生活をいとなんでいたわけである。さきにもしるしたように猪名川や武庫川の流域は両川の洪水でたえず危険にさらされていた。そしてまた、この地方は、のちに述べる『日本書紀』の仁徳(にんとく)天皇三十八年七月の条にみえる佐伯(さへき)部が献上した猪名県(いなのあがた)の鹿の話や、和歌にもよくうたわれた「猪名の笹原(ささはら)」のことばからも知られるように、未開の原野が一面に広がり、多くの鳥獣が群がっていた。人びとは狩猟のかたわら、その地を開拓して耕地を少しずつ広げ、河川の洪水から自分たちの耕地を守り、農業生産の成果をあげるためにいろいろな方法を考えだしていった。小さな共同体だけで治水が困難な場合には、いくつかの共同体を経験の豊かな長老や治水技術にすぐれた人びとが指導して、堤防を築いたり、灌漑(かんがい)用の池や溝をつくったりした。また海岸地方の人びとの間には漁獲の技術も進んだ方法が考えられていったであろう。そこに共同体を指導する首長や、いくつかの共同体を統率支配する族長が生まれてくるきっかけの一つがあるのだが、こうした族長に統率される共同体が、さきに述べたいくつかの生活圏を形成していたと考えるのである。
 彼らは共同体の神として、首長や族長の祖先神を祭り、また首長や族長の支配の下にこの神の子孫としての意識をもちながら、彼らの生活をおくっていた。たえず自然と戦いながら過ごす農耕生活のあいまには、人びとは時として慰安のときをもつこともあった。農耕儀礼の一つであるとともに若い男女の求婚の場でもある歌垣(うたがき)は、全国のいたるところでみられた古い風習であり、『常陸国風土記』にそのくわしい記事が収められているが、この地方にもそれがあった。さきに紹介した『摂津国風土記』逸文の雄伴(おとも)郡(のちの八部郡)の箇所に歌垣山のことがしるされており、昔、この山に男女が集まり登って、歌垣を楽しんだのでこの山に歌垣山の名がついたとみえる。これはそうした歌垣がさかんであったことを語るものであろう。そしてまた能勢町の東、亀岡市と接するところに歌垣山という名の山があるが、この山もかつてはこの地域に住む人びとが歌垣を楽しんだなごりではなかったかと考えられる。

写真48 歌垣橋から歌垣山をのぞむ(大阪府能勢町)


 このような生活がいとなまれる一方、この生活圏どうしで水利や山林あるいは土地の問題などをめぐってたがいに争うこともあった。そういう争いによって一方が他方を支配し服属させることもあったであろう。あるいは逆に、水利や山林に対して共通の利害をもつものどうしが連合して、共同の敵としての他の共同体と戦うこともあったであろう。このようにして共同体どうしがこれまで以上に深く結びつき、生活圏がさらに広がっていく場合もあった。
 生活圏が広がっていくにつれて共同体はますます強力な指導者により統率支配される傾向を生んでいった。そうして、これまでの生活圏のわくを越えるような支配もあったであろう。こうしたわくを越えて、いくつかの共同体を支配統率する小君主ともいうべき者が、のちに述べる県主(あがたぬし)とか国造(くにのみやつこ)とかいわれる族長層であり、時としてはその支配する領域は、いくつかの生活圏にまたがっていることもあった。彼らは支配下の集団を率いながら、その利害によってたがいに対立したり、連合したりするようになっていった。こうした状態は四・五世紀ころにはこの猪名川や武庫川流域の地方だけでなく、広く日本各地にみられるようになっていたことが推測されるのである。