『日本書紀』をみると、仁徳天皇三十八年七月の条につぎのような物語がしるされている。
夏の暑いころだったので、天皇は皇后とともに高台(たかどの)に出て暑さを避けるのを習慣にしていたが、毎晩のように菟餓野(とがの)の方から愁いを含んだ鹿の鳴き声が聞こえて、その声に深いおもむきを皇后とともに感じていた。ところがその月の末ころ、いつもの鹿の声が聞かれなくなったので、不審に思った天皇はそのことを皇后と話しあっていた。その翌日、猪名県に住む佐伯部が天皇の御膳(ごぜん)にと一頭の雄鹿を献上してきた。天皇がどこでとれた鹿かと臣下に問わせたところ菟餓野でしとめた鹿との返事であった。この返事を聞いた天皇は、毎晩その鳴き声に耳を傾け、心を慰めていた鹿こそこの献上された鹿であったことを知った。そして、いかに事情を知らなかったとはいえ、その鹿を佐伯部が射殺してしまったことを悲しみいかり、佐伯部を皇居の近くに住まわせておくことをきらって、安芸(あき)国の渟田(ぬた)に移させてしまった。
以上が物語の大筋であるが、これをそのまま仁徳天皇のときの歴史事実とすることはできない。ただこの物語のなかに猪名県のみえることに注意が向けられる。
ここで県について簡単にしるしてみよう。これはもともとは各地方における独立の小国とみられるもので、支配者を中心に一つの部族が集団的にまとまり、その部族の神を祭っていたものであった。これが大和朝廷によって服属させられると、朝廷の地方支配の体制のなかに県として組みこまれるようになる一方、その支配者は従来の立場をほぼ認められ、県主として一種の地方官のような性格をもつことになった。こうした県の設置は三世紀の後半から五世紀にかけて畿内から西日本を中心に活発におこなわれていったといわれている。
表6 県の分布
道 | 国 | 県 | 小計 | 計 |
---|---|---|---|---|
畿内 | 倭 | 菟田・春日・猛田・層富・山辺・十市・高市・磯城・葛城 | 9 | 18 |
山代 | 鴨・栗隈 | 2 | ||
河内 | 茅淳・河内・三野・志貴・紺口 | 5 | ||
摂津 | 三島・猪名 | 2 | ||
東海 | 伊勢 | 川俣・安濃・壱志・飯高・度逢・佐那 | 6 | 8 |
尾張 | 年魚市・丹羽 | 2 | ||
東山 | 近江 | 犬上 | 1 | 2 |
美濃 | 鴨 | 1 | ||
山陰 | 丹波 | 丹波 | 1 | 1 |
北陸 | 三国 | 坂井 | 1 | 1 |
山陽 | 吉備 | 川島・上道・織部・三野・苑・波区芸・仲・磐梨 | 8 | 9 |
周防 | 沙麼 | 1 | ||
南海 | 讃岐 | 小屋 | 1 | 1 |
西海 | 筑紫 | 儺・伊覩・崗・八女・山門・水沼・上妻・嶺・松浦 | 9 | 23 |
火 | 高来・八代・熊・佐嘉・閼宗 | 5 | ||
豊 | 直入・長峡・上膳 | 3 | ||
日向 | 諸・子湯 | 2 | ||
薩摩 | 会・加士伎 | 2 | ||
対馬 | 対馬 | 1 | ||
壱岐 | 壱岐 | 1 | ||
計 | 63 |
のちに摂津国として成立する地方にも大和朝廷の進出に応じていくつかの県が設置されていったと思われるが、史料のうえにはっきりとわかるものは三島県と猪名県の二つである。三島県は現在の茨木市を中心に安威川(あいがわ)流域にあったといわれている。この付近には古墳時代の前期から後期のはじめにかけての間、連続して墳墓が営造された弁天山古墳群(高槻市)があり、これはおそらく三島県を管理支配する三島県主の墳墓であったと考えられる。当時、県の支配管理者である県主は、その県の呼称を帯びるのがふつうであって、三島県は三島県主の支配管理するものであった。したがってこの氏族はこの地方に勢力をもつ豪族であったといえるであろう。一方猪名県は現在の尼崎市北部から猪名川沿いに伊丹市東部一帯にまでまたがる地域がその領域であったとされているが、三島県主の例にならえば、この支配管理にあたった氏族は猪名県主ということになる。ところがこの氏族の名は史料のうえに現われないのである。猪名を名のる氏族としてはのちにもふれる猪名(いなの)(為奈)公(きみ)(のちに真人(まひと))が史上にみえるだけなので、この氏族を猪名県主の子孫とする意見があるが、猪名公(真人)は宣化(せんか)天皇の子孫と称する比較的新しい氏族であるので、この氏族をそのまま猪名県主にあてることはできない。猪名県主は、大和朝廷から律令制(りつりょうせい)国家へと中央の政治権力の性質が変化し、地方支配もそれに応じて県制から国造制へと変わり、中央の支配力が強化されていく間に、しだいに勢力を失い没落していったものと考えられる。
ただ、さきの仁徳天皇の鹿にまつわる物語が、猪名県から狩贄(かりにえ)、つまり狩猟の獲物を大和朝廷に貢納する習慣になっていたことを語っていることから、猪名県主の動きについてつぎのようなことが推測されている。すなわち、猪名県主と同じくやはりこの地域に住み、朝廷に天皇の食事をつくりすすめる仕事、つまり供御(くご)の調整、供進にあたっていた高橋朝臣(あそん)に猪名県主が結びつき、その一族となることにより地位を保持していこうとしたと考えられているのである。また上述の猪名公が猪名川流域に勢力を確立していくにつれて、すでに勢力を失っていた猪名県主がこの氏族の一族となって氏族としての立場を保ったのではないかとの考えもある。いずれにせよ確定的なことは知られないのであるが、猪名県主が大和朝廷の摂津進出によって勢力を失ってしまったことは確実であろう。