ところで、さきの三島県主であるが、この氏族についてつぎのような話が『日本書紀』の安閑(あんかん)天皇元年の閏十二月条にみえる。
天皇が大伴金村(おおとものかなむら)をつれて摂津の三島に行幸したとき、金村に命じて三島県主飯粒(みしまのあがたぬしいいほ)に地味の良い田を献上するようにいわせた。この命令を聞いた飯粒はたいへん喜んで、ただちに上御野・下御野・上桑原・下桑原・竹村の地にある合計四〇町の田を天皇に献上した。また、摂津の有力な豪族であった大河内直味張(おおしこうちのあたえうまはり)にも同じように良田を献上するようにとの命令が出されたが、味張は良田の献上を惜しんで、指定された田は地味も悪く灌漑も不便であるという理由で献上しなかった。このことを知った天皇は大伴金村を遣わして味張の行為を責め、ある程度まかせていた摂津地方の政治を彼から取りあげてしまった。自分の行為を後悔した味張は、罪からまぬかれるため以後は永久に春と秋に五〇〇人ずつの耕作民を田部(たべ)としてミヤケにさしだすことを誓い、また金村にも六町の土地を贈って天皇へのとりなしを頼んだ。竹村屯倉(みやけ)の耕作農民に河内県(かわちのあがた)の部民を使うのはこのときからはじまったという。
この記事は細かい部分で問題となる箇所が多いのであるが、ここでは大河内直味張に代表される大河内氏についてしるしておきたい。ただ、この氏族を取りあつかうためには国造についてふれなければならないので、まずその説明から入ろう。
さきに県主について、彼らは大和朝廷によって支配される以前の独立の小国家の支配者であると説明したが、国造も本質的には県主と変わるものではなかった。ただその支配領域は県主よりも広く大きなものであり、のちの郡に相当するほどの広さの地域と、そこに生活する人民とを支配していたのであった。いわばその支配領域の族長=小君主ともいうべきものであった。
こうした族長層に対して、大和朝廷は軍事力を背景に強大な支配力を及ぼしながら、しだいに服属させていった。北九州の筑紫にいた国造磐井(いわい)や中国地方の吉備(きび)の国造前津屋(さきつや)のように朝廷に対してはげしく抵抗する国造もいた。こうした国造に対しては戦闘によって容赦なく滅ぼしたが、服属する者はこれを許し、彼らの従来の立場をほぼそのまま認める場合もあった。このようにして服属した族長に対し、国造の地位を与え、彼らの地位を認めて保護するかわりに、彼らの支配地から生産物を朝廷に貢納させ、またその支配下の人民の労働力を中央に徴発したのである。そして、中央の氏姓制度が整えられるのに応じて地方支配の組織もしだいに整備されてくると、国造は朝廷から任命されてその地域の管理や支配にあたる、いわゆる行政官的な性格をもつようになっていった。大和朝廷の支配力を地方に行きわたらせる方法として、この方法は県の制度よりもいちだんと進んだ、また有効な方法であった。それだけに、この支配組織の成立整備は県制よりも時代的には少しさがる。すでにしるしたように、県制が三世紀ころからみられるのに対し、国造制は五・六世紀にさかんになる。そして、国造制が整備されるにしたがって県制は国造制の下に組みこまれ、国造の下に県主が存在するという、ちょうど上級・下級の地方行政官のような姿をしめす場合さえみられるのである。もっともそうした状態は日本全国のどこにでもあてはまるというものではなくて、国造支配地域のなかに県があるときには、国造の力は県には及ばず、県主が管理するという形態もみられた。さきの大河内直味張と三島県主飯粒の場合などはその例としてあげられるであろう。そしてこうした国造制の成立によって、大和朝廷による全国支配はだいたい完成したということができる。