ところで国造はその地域(のちの郡または場合によって国にわたる地域)の名を帯びるのがふつうである。それゆえ摂津地域の場合であれば、摂津国造または津国造とよばれる氏族が史上にみえるはずなのだが、そうした氏族はみえない。いっぽう、さきの『日本書紀』の摂津のミヤケ設置の記事に大河内直味張がこの地方の有力な豪族としてみえていることや、大化改新以後、律令制に定められた国造として、一国に一人の国造が任命されるようになってから、慶雲(けいうん)三年(七〇六)十月に摂津国造として、従七位上凡河内忌寸石麻呂(おおしこうちのいみきいしまろ)が任命されていることに注意が向けられる。凡河内はまた大河内とも書き、忌寸の姓(かばね)はのちになってこの氏族に与えられたもので、それ以前は直(あたえ)の姓であったことから、うえの両者は時代はちがうがひとしく凡河内氏の動きをしるしているとみられるので、凡河内氏こそ、大化前代から摂津地方の国造として勢力をふるっていた氏族ではなかったかと考えられてくる。
平安時代のはじめ、弘仁(こうにん)六年(八一五)に成立した『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(以下『姓氏録』と略称)をみると、摂津国神別の項に「凡河内忌寸、額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)と同祖」とみえるが、その額田部湯坐連は左京神別の項に収められていて、天津彦根命(あまつひこねのみこと)の子孫だとしるされている。ところが凡河内忌寸の記事につづいて「国造、天津彦根命の男、天戸間見命(あまつとまみのみこと)の後なり」という文章がみえる。ここの国造というのは、しるされているのが摂津国神別の項であるところから、摂津国造とみるのが妥当と思われる。しかもそれは『姓氏録』の書き方から推測して大化前代から伝統的な地位を占めていた国造のことをしめし、大化改新後の国造のことをいっているのではないとみられる。この国造が凡河内氏の祖神と同じく天津彦根命から出ているとしるされていることは、凡河内氏が摂津国造であったという推定をさらに強めることになると考えられる。