凡河内氏の根拠地

197 ~ 200 / 532ページ
この凡河内氏は、さきにもしるしたように大河内とも書かれるが、これが河内の美称であることは、倭に対する大倭からも推測がつく。とすれば、この氏族は勢力を河内(のちの和泉を含む)にまで及ぼしていたことになり、のちの摂津・河内・和泉の三国にまたがる凡河内国に勢力をふるう強大な氏族であったということになろう。ではその本拠地はどこであったのだろうか。さきの『日本書紀』のミヤケ献上の話によると、大河内直味張が河内県の部民をミヤケの耕作民として献上したとあるが、この河内県はのちの河内国に存在していたものであり、しかも凡河内氏の支配力のとくに強かった地域と推定される。とすれば、凡河内氏の根拠地は氏の名と合わせてのちの河内国内にあったと考えられてくる。凡河内氏はここを根拠地とし、しだいにその勢力を西にのばし、摂津地域までその支配下に収めるようになったものとみることができると思う。それは大和朝廷の摂津・河内への進出および勢力確定にさきだつものであったことはいうまでもない。まさに凡河内国の君主ともいうべき存在であった。

写真52 河内国魂神社(神戸市)


 ただ、凡河内氏の根拠地をのちの河内国とする考えに対して一つの大きな疑問が出されている。それは天平十九年(七四七)の『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳(がらんえんぎならびにるきしざいちょう)』の記載のなかに、摂津国雄伴部(のちの八部郡)に凡河内寺がみえることから、凡河内氏の根拠地は西摂地方にあったとする見解である。凡河内寺はその名から凡河内氏の氏寺とみるのが妥当であり、氏寺はその氏族の根拠地に設定されるのが一般的であるから、凡河内氏の本拠地を雄伴郡のなかに求めることはたしかに理由のあることなのである。しかも雄伴郡およびそれに東接する菟原(うばら)郡には比較的大きな古墳の存在することもみおとせない事がらであろう。古墳については次節でくわしく問題とするけれども、勢力のある豪族の墳墓であることは今さらいうまでもあるまい。それゆえ、この地域に有力な豪族が勢力をふるっていたことは考えてよいと思う。そして、さきの凡河内寺の存在を考えるならば、これらの古墳が凡河内氏の墳墓であったとの想定もなりたつのである。
 しかし、そのように考えるとき、雄伴部よりも菟原郡にある古墳の方がいずれも時代的にのちのものであり、また規模も大きいことをどう考えたらよいのであろうか。現在、雄伴郡内には竪穴(たてあな)式石室をもつ二本松古墳・夢野丸山古墳・得能山(とくのうざん)古墳などの円墳が知られているが、菟原郡の岡本ヘボソ塚・呉田求女(ごでんのもとめ)塚・東明乙女(とうみょうおとめ)塚・味泥求女(みどろもとめ)塚などの諸前方後円墳に比べ規模も小さいし時期的にも古い。もし雄伴部が凡河内氏の本拠地であるとすれば、この地域に規模の大きな前方後円墳が営造されてよいはずなのにそれをみることができない。しかも菟原郡の四基の古墳をみると、時代的には岡本ヘボソ塚→呉田求女塚→東明乙女塚→味泥求女塚の順になるが、これらはちょうど位置の上で東から西へと並ぶことになる。菟原郡に根拠地をもつ凡河内氏がしだいに勢力をひろげ東摂地域に進出していったとするならば、菟原郡の古墳は西から東へ年代順に並んでよいと思われるのに実際は逆なのである。いうまでもなく、古墳の営造をこのように単純に割りきってしまうのには問題があるかもしれないが、この二郡の地域内に存在する古墳を凡河内氏の墳墓と推定するには、氏寺の性格の考察と合わせてもう少し多方面の検討を必要としよう。

写真53 東明乙女塚(神戸市)
現在市街地の中で公園となっている


 このように、凡河内氏の本拠地については現在のところ確定的なことは知られないが、その根拠地がいずれであるにせよ、この氏族が摂津地域に強大な勢力をのばし、そしてその勢力拡張の目的の一つに武庫津(務古水門)や難波津の確保があったことは確実と思われる。既述のように背後に北摂山地をもち、木材の集積地であるとともに造船の場でもあり、また海上交通の要地でもある武庫津を難波津とともに掌握支配することは、彼らの勢力確立のために必要不可欠の事がらであったろう。ここをおさえた凡河内氏は、おそらく代表的な豪族として摂河泉地域に威をふるったのではなかろうか。
 だが、こうした武庫津や難波津の重要性、そしてその背後の地域の豊かな産物は、大和朝廷にとっても同様に必要なものであった。とくに大和朝廷にとっては、国内統一さらに半島への進出のためにこの港は難波津とともにかけがえのない根拠地であった。そこに大和朝廷によって凡河内氏が支配服属させられるようになる理由があったといえよう。この支配服属の過程がどのようなものであったかは不明であるが、おそくとも四世紀なかごろまでには服属が終了したのではなかろうか。ただこの服属の過程にはげしい大規模な戦闘はみられなかったようである。大和朝廷に比較的早くしかもはげしい抵抗をしめすことなく服属した国造の姓は直が一般的なのであるが、凡河内氏もこの直の姓を帯びていることや、またその服属がさきの大河内直味張のミヤケ献上の話に象徴的にしるされているように、なんらはげしい抵抗がみられないことなどをみるとき、この氏族の服属は比較的容易にまた平和のうちにおこなわれたようである。そして、この氏族の服属によって、のちの摂河泉の地域は、大和朝廷の支配下に入るとともに、全国統一さらに海外出兵のための重要な根拠地になったということができるのである。