宝塚ゆきの阪急電車が雲雀丘花屋敷(ひばりがおかはなやしき)駅にさしかかる手まえで、前方に、東西に連なる山やまから南に突きでた尾根がみえる。この尾根の先端標高二〇〇メートルのところに一基の前方後円墳がある。すそまでゴルフ場の芝生がせまっているのが目じるしになるが、そこに古墳のあることを知らないものには、ふつうの山としかみえない。しかし今から千数百年もまえ、古墳をつくった当時には、われわれの目に映る姿とはまったくちがっていた。一本の木も生えていない墳丘は、周囲の緑のなかで、ひときわめだっていたにちがいない。
この古墳は「万籟山(ばんらいさん)古墳」とよばれている。万籟山というのは、古墳のある尾根の名からつけられたものである。もとはそこに葬られた人の名が知られていて、「○○の墓」とよばれていたのだろうが、長い年月のうちに忘れさられてしまった。このように名称のない古墳には、その地籍から名をつけられる場合がある。また各地の古墳、とくに前方後円墳によくつけられる瓢箪山(ひょうたんやま)・銚子塚(ちょうしづか)・茶臼山(ちゃうすやま)・車塚などは、古墳の形を身ぢかにある器物にたとえたものであり、王塚・大塚・大塚山などは、いつのときからかはわからないが、「王の墓」あるいは「大きな墓」という程度の意味でよばれてきたものであろう。
だれを葬ったのかわからない古墳ではあるが、それがいつごろつくられたのかについては、古墳の形・埋葬施設・副葬品などを検討して推定することができる。いちおう確実と考えられる天皇を葬った古墳(天皇陵)の変遷が一つの基準となっているからである。そういえば、だれしも応神天皇陵や仁徳天皇陵のように葬られた人や年代のはっきりわかっている古墳があると思うであろう。
ところが、じつはこのように天皇陵と定められている古墳ですら、はっきりしているとはいえない場合がある。神武天皇陵などは論外としても、たとえば継体(けいたい)天皇陵は、いま茨木市太田の茶臼山古墳に比定されている。記・紀によると、継体天皇は三島の藍野(あいの)陵に葬ったとあり、平安時代に編纂(へんさん)された『延喜式(えんぎしき)』によれば、三島藍野陵は摂津国嶋上郡にあるとしるされている。ところが、大正年間の『陵墓要覧(りょうぼようらん)』では、茨木市茶臼山古墳を継体陵としている。茶臼山古墳は、前方部の発達の様子からみて、継体陵とするにはすこし古すぎるきらいがあり、所在も嶋下郡にあたる。したがってこれよりもむしろ、茶臼山古墳の東北東約二キロメートルの嶋上郡内にあたる高槻市郡家(ぐんげ)の今城塚(いましろづか)古墳こそ、継体陵とした方がよいと考えられている。
天皇陵さえこのような状態であるから、各地に伝えられている「○○命(みこと)の墓」とか「○○王の墓」などは、まず疑ってよかろう。やはり一般的には、古墳に葬られた人びとの名は早く失われているのであり、仁徳陵などは例外といえる。かつて多くの人びとを動員して、自らのために古墳をつくることのできた人が存在したという事実が確かめられることをもって、満足すべきかもしれない。
では、古墳をつくるにあたってどれほどの人びとの動員を必要としたのだろう。仁徳陵については、すでにつぎのような試算がなされている。この陵をつくるために、毎日五〇〇〇人が働いても、一年はじゅうぶんにかかる。また墳丘にたてめぐらされた円筒埴輪(えんとうはにわ)は二万本を越えており、ひとりの工人が一日に二〇本の円筒埴輪をつくるとしても、一〇人で一〇〇日かかる。特定の人物を葬るために、このような大事業がおこなわれた。
各地の一般の古墳についてみても、それぞれ人びとを動員しうる範囲が限られてくるので、古墳をつくろうとするものにとっては、それなりにやはり大事業であった。そればかりでなく、遺骸の埋葬とともにさまざまな副葬品も埋納された。こう述べてくると古墳は単なる墓というだけでなく、権威を象徴する政治的記念物でもあると理解できよう。そこでこのような古墳をさかんにつくった時代を、それまでの弥生時代と区別して、古墳時代とよんでいる。