古墳発生の上限

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古墳の発生については、現在、大きく分けて二つの考えかたがされている。一つは弥生時代の墓が徐々に変化して古墳という形をとるようになったという考えであり、もう一つは、それまでにはなかった社会的地位の発生によって、突然古墳がつくられるようになったとするものである。
 『魏志倭人伝』に卑弥呼が死んだとき、径百余歩の大きな冢(つか)がつくられ、殉葬する奴婢(ぬひ)が百余人いたという意味のことがしるされている。これをそのまま信頼すれば、卑弥呼の死んだ三世紀なかごろは、古墳時代であったということもできる。しかし、径百余歩という数値が事実を伝えたものかどうか問題があり、また邪馬台国が北九州にあったにせよ、畿内にあったにせよ、この記事に関連づけて、卑弥呼の墓に比定できる墳墓は、明らかにされていない。
 ところが同じ『魏志倭人伝』は、景初(けいしょ)三年(二三九)卑弥呼が魏に使者を送ったところ、翌正始(せいし)元年(二四〇)、それに対して魏の皇帝から種々の下賜品が届けられたとしるしている。その下賜品のなかには銅鏡百枚が含まれていた。魏の鏡は三角縁神獣鏡を中心に、わが国の古墳からしばしば発見されている。この鏡には、同じ鋳型からつくられた同笵鏡(どうはんきょう)が幾組かあって、各地の古墳にみられる同笵鏡の分有関係から、三角縁神獣鏡を配布した中心は、畿内にあることが立証されている。また三角縁神獣鏡のなかに、景初三年あるいは正始元年という魏の年号銘のある鏡が含まれていて、三角縁神獣鏡が日本に輸入されたのは、三世紀の前半から後半にかけてのころと推定できる。卑弥呼が魏の皇帝から贈られたという銅鏡百枚のなかに、この三角縁神獣鏡が含まれていたこともじゅうぶん考えられる。このことから、古墳の発生が、三世紀のなかごろをさかのぼりえないことは、明らかであろう。

写真55 柴崎古墳の正始元年神獣鏡
(東京国立博物館所蔵)