墓と銅鐸と伝世鏡

208 ~ 210 / 532ページ
一つの墓域のなかに多くみられる土壙墓は、ムラの一般の人びとの墓と考えられる。これに対し方形周溝墓は、周囲に溝をめぐらし、埋葬には必要以上の空間を確保し、またしばしば周溝に土器を供献していることから、ムラのなかでも「限られた人」の墓であると考えられよう。ところが方形周溝墓には数人を埋葬している例が多く、溝のなかから壺棺などが検出されることもあって、「限られた人」といっても、その家族を一カ所に葬ったらしく、家族墓的色彩が濃い。すなわち「限られた人」というよりも「限られた家族」の墓というべきであろう。したがって、方形周溝墓の中央に埋葬された人はその家族の長であり、周溝のなかも含めて周囲にみられる埋葬施設には、家族の人びとが葬られたと考えられる。この「限られた人」は、ムラの有力者であり、生前、共同体の首長または司祭者の地位にあったのであろう。ここで「共同体の首長」や「司祭者」というように分けて書くのは、あえて共同体の首長=司祭者とする必要はないと考えるからである。
 弥生時代の祭器の一つであった銅鐸は、農耕に関する絵画の鋳出されているものもあって、農耕祭祀にともなう祭器であろうといわれる。またすでに述べたように、最近茨木市東奈良遺跡で発見された銅鐸の鋳型が、豊中市と善通寺市でそれぞれ出土した銅鐸のものであったことは、ある場所でつくられた銅鐸が、広く移動していることをしめしている。しかしこの銅鐸がどのようにしてムラにもちこまれたのか、その実態はまったく不明である。
 いっぽう、神戸市桜ケ丘や滋賀県野洲郡小篠原(こしのはら)のように、一カ所から多くの銅鐸が出土する例からは、つぎのように考えられている。一つの銅鐸は、原則として一つのムラで用いられたという想定ができれば、桜ケ丘のように一四鐸が一カ所に埋蔵されたのは、一四のムラが銅鐸をもちよって、そこに一括して埋めたことになる。その背景には、銅鐸を用いたそれまでの祭りをやめ、各ムラの枠(わく)を超えた新しいより大きな統一体がつくられたという。
 それでは銅鐸の祭りをやめ、新しい統一体をつくろうとする動きは、各集団の人びとの一致した考えにもとづくものであろうか。それとも各集団の有力者の意志によるものであろうか。あるいはより大きな政治的統一体の圧力によっておこなわれたものであろうか。
 銅鐸が現在発見されるような状態で永遠に埋蔵されるようになったのが、弥生時代のいつのころか、それを明らかにする証拠はまだみいだせない。ただ、形式の古い銅鐸と、より新しい銅鐸が共存している例があり、また、かなり長期にわたって使用されていた痕跡をしめすものもあることから、限られた期間内に、いっせいに埋められたとも考えられるが、まえの問いにはじゅうぶん答えることはできない。
 そこで「伝世鏡(でんせいきょう)」の問題をとりあげてみたい。古墳、とくに前期の古墳から、漢の鏡である内行花文(ないこうかもん)鏡や方格規矩四神(ほうかくきくししん)鏡などの出土することがある(写真56)。これらの鏡は、わが国にもたらされて以来、代々の首長(世襲とは限らない)の手を経て伝えられ、最終的に古墳に副葬されるようになったと考えられている。さきにもふれた魏の三角縁神獣鏡についても、やはりある程度の伝世を考えておく必要がある。

写真56 一貴山銚子塚古墳の内行花文鏡
(京都大学文学部所蔵)