首長と司祭者

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ところでなぜ鏡は古墳時代まで伝世し、銅鐸は弥生時代のうちに廃絶されたのだろうか。それは、鏡は首長のシンボルであり、銅鐸は集団の祭器というちがいによるのではなかろうか。弥生時代のムラを中心とする農業共同体は、古墳時代になっても、その規模などに違いはあったかもしれないが、本質的な変化はなかった。そこで共同体の首長=司祭者とすれば、銅鐸の廃絶は、首長自ら中心となっておこなってきた祭祀を否定したことになる。しかし別のみかたをして、共同体の首長と司祭者が異なる人物であったとすれば、これは集団内における首長としての立場と司祭者としての立場との相対的な力関係の変化をしめしている。
 共同体の祭祀を銅鐸の祭祀ということで代表させれば、この祭祀を司るのが司祭者である。いっぽうムラの日常生活における指導者は首長である。銅鐸の祭祀がさかんであった段階でのムラの最有力者は司祭者であったと思われる。ところがつぎに首長が司祭者のうえに立つ段階がくる。それには、生産力の向上とともに、高地性集落の発生・増加、石製武器の大型化・多量化にしめされるような、畿内を中心としたと思われる政治的抗争が、契機となっている。ひとりひとりの生死やムラの存亡をかけた戦いを経験することによって、ムラのなかでの首長の力が強くなっていったのであろう。従来はその一言が首長をはじめとするムラの人たちの動きを左右するほどであった司祭者も、しだいに単なる祭祀の進行係のような地位に追いやられ、ひいては共同体の祭祀そのものも首長に管理されるようになった、とは考えすぎであろうか。
 話をもういちど方形周溝墓にもどそう。
 周囲を溝で区画し、土器などが供献されたのは、司祭者とその血縁の家族たちの墓であったという特殊性があったためではなかろうか。それは古墳時代になっても、けっして古墳という形へ発展しうる性格のものではなかった。事実、古墳時代にも方形周溝墓はひきつづきつくられている。
 したがって首長の墓は木棺墓のどれかに求められるであろう。田能遺跡では、数ある木棺墓のうちで二基に葬られていた遺骸は、それぞれ銅釧(どうくしろ)や管玉(くだたま)を身につけたものであった。一般の人びとと同じような木棺墓に葬られてはいても、やはり一般の人びととは同一視できない要素をもっている。それではこのような首長たちが古墳時代になると、いっせいに古墳をつくるようになったかというと、かならずしもそうではない。

写真57 田能遺跡の銅釧をはめた遺骸(尼崎市教育委員会提供)


写真58 田能遺跡の管玉を着装した遺骸(尼崎市教育委員会提供)