現在の編年観による限り、古墳の発生時期は地域によって異なっている。古墳は墓であると同時に権威の象徴でもある。前代の首長を葬るにさいしての葬送儀礼の場である古墳で、最終的に首長権が引きつがれたのであろう。共同体にとって銅鐸の祭祀に代わる最大の祭祀、それは、古墳の築造にはじまり、古墳のうえでおこなわれる葬送儀礼に集約されるこの新しい祭祀であった。あらたな首長は、それまでの鏡による権威づけを必要としない政治的権力者であった。ここに伝世鏡などが埋められる必然性があった。
古墳をつくるということは、まず畿内中枢(ちゅうすう)部にはじまったと考えられている。古墳を築くという現象の伝播(でんぱ)は、受けいれる側の問題もあって、かならずしも距離に比例しておくれるという性質のものではない。首長が単に司祭者のうえに立つという段階から、さらに古墳をつくる段階に至るには、もう一つの飛躍が必要であった。
前期の古墳にみられる長大な割竹形木棺と、それを納める竪穴式石室、鏡をはじめとする各種の副葬品など、全国的にもかなり画一的な内容をもったこの新しい祭祀は、畿内中枢部の権力者との密接な関係をもってはじめて可能であったのだろう。
この新しい社会的地位の発生を、より内容に即していえば、首長の権威の革新といえよう。前期古墳の副葬品にしばしばみられる碧玉製腕飾類(へきぎょくせいうでかざりるい)は、被葬者が生前もっていた司祭者的性格をしめすものと考えられているが、それも、司祭者をもそのしたに従えた古墳時代の首長を考えることによって理解できよう。弥生時代の社会と古墳時代の社会のちがいは、司祭者と首長とによってひきいられていた共同体と、首長によって一元的に支配されるようになった共同体とのちがいであるといえよう。