さて埋葬は、土壙を掘りその底に粘土をしき、粘土の上面をU字形にして、そこに割竹形木棺をおき、遺骸を納めた。周囲に割石を積んで四壁とし、数枚の平らな石をうえにおいて、竪穴式石室を築く方法が主として用いられた。おもな副葬品は鏡をはじめ、鎌・斧・〓(やりがんな)などの鉄製農工具や、刀・剣・槍・鏃などの武器、勾玉(まがたま)・管玉などであった。なかでも、鏡は弥生時代から伝世されてきたと思われる中国鏡、とくに漢の鏡や魏の三角縁神獣鏡などである。さらに、前期でもすこし時期のおくれる古墳からは、中国鏡を模倣してつくった〓製鏡(ぼうせいきょう)がみられる。
図56 前期古墳の副葬品
1・8・12 真名井(大阪),2・3・7・13・14 弁天山C1(大阪),4 松岳山(大阪),5・6 カジヤ(京都),9 マエ塚(奈良),10・11 国分寺(鳥取),15~17 椿井大塚山(京都),18・20~22 妙見山(京都).19 森尾(兵庫),23・24 銚子塚(福岡)
茨木市宿久庄(しゅくのしょう)の紫金山(しきんざん)古墳からは、中国鏡・〓製鏡あわせて一二面の鏡が他の多くの副葬品とともに出土している。遺骸の頭に近くおかれていた方格規矩四神鏡には、「新有善同出丹陽、……尚方御竟……」の銘文がみられ、中国の新(八~二三)の時代につくられたことが知られる。剣・勾玉・管玉などが木棺内にあり、いずれも遺骸につけられていたものであろう。残りの一一面の鏡と、農工具・武器はおもに石室内で木棺の外におかれていた。一一面の鏡は石室内の両端にならべられ、方格規矩四神鏡一面だけが棺内におかれて、他の鏡と区別してあつかわれているのにはそれなりの意味があったと考えられている。
弥生時代以来、首長の権威として伝えられ、もっていることに意義のあった鏡も、新しい首長にとっては、それによる権威づけの必要がなく、むしろ埋めてしまうことのほうがより重要なことであったのではあるまいか。紫金山古墳のように、すでに意味のなくなった伝世鏡が、他の鏡と区別してあつかわれていたのは、新しい首長の側の配慮があったのかもしれない。
紫金山古墳では、さらに、国産と考えられる碧玉製の鍬形石・車輪石が発見されている。これに石釧を加えた碧玉製腕飾類は、前期古墳に特徴的な遺物である。鍬形石・車輪石・石釧は弥生時代の貝輪を原型として、古墳時代になって、碧玉でつくられるようになったもので、分布状況からみて、畿内中枢地域から各地へ配布されたと考えられている。
中国製の三角縁神獣鏡を複数で出土する古墳相互の鏡の組みあわせ関係を検討すると、それらを古式鏡群と新式鏡群に分類できる。三角縁神獣鏡の同笵関係のある古墳のうちで、古式鏡群を副葬する古墳には〓製鏡や碧玉製腕飾類はみられず、新式鏡群を副葬している古墳にだけそれらをともなっている。これは前期古墳の副葬品において、新・古二つの文化活動が反映されている結果といわれている。新しい文化活動として、〓製の三角縁神獣鏡や碧玉製腕飾類の製作がはじまった。〓製の三角縁神獣鏡に四神四獣鏡を原鏡とするものがみられないのは、〓製の三角縁神獣鏡をつくる段階で、すでに中国製の三角縁四神四獣鏡の配布が終わっていたと考えられている。西摂平野一帯の前期古墳で、内部構造や副葬品の明らかになっているものは、いずれも新しい様相をしめしている。
宝塚の市域では、安倉(あくら)高塚古墳・万籟山古墳がこれにあたる。