この古墳は現在墳丘の北半分を残し、道路に面した切断面にみえる石扉の奥に、竪穴式石室の一部が残されている。周囲は人家にとりかこまれ、失われた南半分のあとには、台地から西の県道(尼宝線)へ通じる道路が東西に走っている。この道路の敷設が、墳丘の破壊とともに、この古墳の名を全国にひろく知らせることになった。
昭和十二年(一九三七)四月に道路工事がはじまり、工事の進行にともない、墳丘の南半分が崩され、当然のことながら石室も破壊されていった。工事中に鉄刀あるいは鉄剣らしいものが発見されたが、錆びているということで、折りまげてその場に捨ててしまったと聞いて、この土地の所有者塚本弥右衛門は、現地におもむいた。古墳はすでに半分以上崩され、わずかに石室の一部が残っていた。石室は丸い河原石を積みあげ、天井には板石がのせてあり、床にはまっ白な粘土がしかれていた。手もとにあった鎌で石室を探り、かきだしたところ、□烏七年鏡と内行花文鏡がつづいて出てきた。後日、石室内を掃除して、玉類・鍬先などを発見したという。これらの出土品は、昭和十二年十月二十五日付で、文部省より重要美術品の指定を受け、塚本家に所蔵されている。
表7 西摂平野における主要前期古墳一覧表
古墳名 | 所在地 | 墳形・規模 | 埋葬施設 | 出土遺物 | 文献 |
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呉田求女塚古墳 | 神戸市東灘区住吉町 | 前方後円墳 不明 | 竪穴式石室 | 鏡6(内行花文鏡・画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡4)車輪石1 | 『兵庫県報』2(大正14年) |
ヘボソ塚古墳 | 神戸市東灘区岡本 | 前方後円墳 l:64,d:32,w,h1.h2不明 | 竪穴式石室 | 鏡6(夔鳳鏡・画文帯環状乳神獣鏡・平縁式二神二獣鏡・獣帯鏡・三角縁神獣鏡2),石釧2,玉類(勾玉2・管玉13・小玉121・棗玉1),土器1 | 同上 |
親王塚古墳 | 芦屋市翠ヶ丘町 | 円墳 d:18,h:2.7 | 不明 | 鏡10(三角縁神獣鏡4・不明6) | 同上 |
安倉高塚古墳 | 宝塚市安倉南 | 円墳 d:17,h:2.7 | 竪穴式石室 | 鏡2(赤島七年神獣鏡・内行花文鏡),玉類(管玉3・小玉2)鍬先,鉇,直刀,矛先(?) | 『兵庫県報』14(昭和14年) |
万籟山古墳 | 宝塚市切畑字長尾山 | 前方後円墳 l:54,d:37,w:13,h1:5,h2:2 | 竪穴式石室 | 玉類(管玉10,小玉4),鍬先2,棒状鉄器片 鏡2(四獣鎧・捩文鏡) 石釧5,変形琴柱形石製品 | 『日本古文化研究所報告』4(昭和12年) |
八州嶺古墳 | 宝塚市切畑字長尾山 | 円墳(?)不明 | 竪穴式石室 | 同上 | |
池田茶臼山古墳 | 池田市五月丘 | 前方後円墳 l:62,d:33,w:18,h1:5.6,h2:3.5 | 竪穴式石室 | 石釧,玉類(管玉6・小玉約89),鉄剣片,脚付椀形土器 | 『池田市茶臼山古墳の研究』(昭和39年) |
娯三堂古墳 | 池田市綾羽 | 円墳 d:30,h:5 | 竪穴式石室 | 画文帯神獣鏡,石釧,管玉3,直刀6,剣身2,小刀2,斧頭4,土師器 | 『東京人類学会雑誌』13-150(明治31年) |
待兼山古墳 | 豊中市柴原町 | 前方後円墳(?)不明 | 不明 | 平縁式二神二獣鏡,石釧2,車輪石2,鍬形石 | 『豊中市史』本編1(昭和36年) |
御神山古墳 | 豊中市蛍池南町 | 前方後円墳 不明 | 不明 | 三角縁神獣鏡,車輪石2 | 同上 |
l:全長,d:後円部径,w:前方部幅,h1:後円部高,h2:前方部高(単位メートル)
安倉高塚古墳はこうした状況で破壊されたためにふじゅうぶんな記録しか残っていないが、径一六・五メートル、高さ二・七メートル前後の円墳であった。墳丘はほとんど盛土でつくり、そのすそに葺石(ふきいし)をめぐらしていた。この葺石は武庫川から運んだ河原石であった。なお埴輪はみつかっていない。
竪穴式石室は北東―南西の向きにおかれ、長さが六・三メートルくらいあったという。現在は北東端の一・五メートルほどしか残っていないが、高さ六〇センチメートル、幅七五センチメートルほどである。粘土床は上面がU字形をしており、朱に染まっていたという。前期古墳の竪穴式石室の四壁はふつう扁平な割石を小口積みにしているが、この古墳では、河原石を使っている。葺石と同じように、武庫川から運んだもので、石材を近くから入手していることがわかる。
この古墳からは、□烏七年神獣鏡一面、内行花文鏡一面、碧玉製管玉三個、ガラス製小玉二個、刀身片二、〓片二、鍬先片一、鉄矛片(?)一が採集された。今残っている石室の断面近くから、□烏七年神獣鏡・内行花文鏡・玉類を発見し、石室の端近くに、〓片・鉄矛片・鍬先片があったということであり、刀身片はすでに破壊された部分から出土したようである。これらの様子から、遺骸はおそらく頭部を北東にむけて埋葬されていたのであろう。
□烏七年神獣鏡は径一七・〇センチメートル、白銅質、平縁式の四神四獣鏡で、内区の主文様は、神像と獣形を交互に放射状に配したものである。獣形は鈕(ちゅう)を間にして両側にある二つの神像それぞれを中心として左右の獣が向かいあう姿をとっている。したがって残りの二神像に対しては、獣はいずれも背を向けていることになる。内区主文様をめぐって半円方格帯がある。半円・方格それぞれ八個(推定)あり、方格には一字ずつの銘がある。しかし磨滅と錆(さび)のためにほとんど判読できず、かろうじて「大」と「中」の二字が読めるだけである。鏡縁には、□烏七年ではじまる右まわりの銘文がある。これを報告書ではつぎのように読んでいる。
□烏七年在(?)□□丙午昭(?)□日。青清明鏡百幽〓。服者富貴。長楽未央。子孫□□□□□□陽□□□(以下欠、・印は左字)
中国の年号で「烏」のつくのは、呉の赤烏(せきう)しかないから、□烏を「赤烏」と判断できる。赤烏七年は、西暦二四四年にあたる。ところでこの銘文をあらためて精査してみた結果、すこし判読を異にすると考えるようになった。すなわち
□烏□年□□在丙午。昭如日中。造作明竟。百幽〓。服者富貴。長楽未央。子孫□□□□□明□□□(以下約五字分欠)
となる。これは他の紀年銘鏡の用例から推して、
赤烏七年太歳在丙午。昭如日中。造作明竟。百幽〓。服者富貴。長楽未央。子孫番唱。可以昭明。□□□ [ ]
とつづくのであろう。なおこれまで赤烏七年と読まれている「七」は「十」かもしれない。というのは、銘帯のある周縁部には、中心から放射状に走るこまかい隆起線様の錆があるため文字の横線と紛れやすく、したがって七の下の横線もあるいは錆かとも思われ、むしろ十と読むべきなのかもしれない。もし、そうとすれば西暦二四七年ということになる。
同時に出土した内行花文鏡は径一〇・九センチメートル、面に約三ミリメートルの反りをもつ六花文の〓製鏡である。〓製鏡としては比較的銅質がよく、また、花文間の文様の崩れもあまりひどくない。なお鏡背のほぼ全面に朱がついている。
〓片は、幅一センチメートルで、二片を接合すると、現存部の長さは七・五センチメートルとなる。通常の〓は、先端付近の両側に刃がつけられ、横方向に動かして使い、また先端部には鎬(しのぎ)があって、断面は二等辺三角形となる。ところが、本例では先端付近の両側に刃をつけてはいるが、鎬になる部分が、逆に若干くぼんでいる。
鉄矛片(?)というのは、かつて槍身と報告されたもので、現存長約一九センチメートル、先端から袋穂の一部までが残っている。錆と剥離(はくり)がはげしく、本来の形がなかなかつかめない。中央部付近は、幅一センチメートル、断面が菱形で厚さ〇・八センチメートルを測るが、先端付近になると鎬は不明瞭になり、厚さも減じていく。鑿(のみ)とも思われるが、細身にすぎるという点を除けば、矛とするのが最も妥当なようである。