昭和十年当時、万籟山古墳のすぐ北、八州嶺の最高所に、竪穴式石室を主体とする古墳のあったことが知られている。今その場所は平坦地にされているが、石室の天井石であったと思われる大きな板石が二枚ある。この二枚の石は石質からみて、八州嶺で採取したものとは思われず、もっとも近い入手先を求めると、すぐ北の石切山から運ばれたと考えられる。平坦な頂きの南の崖面には、石室の側壁に使われていたらしい扁平な割石を多く使って、石垣が築かれている。埴輪片も採集されていて、まず古墳として誤りのないものである。ここは東西に走るやせ尾根で、地形的にみて、もとあった古墳は前方後円墳というより、おそらく径十数メートルくらいの円墳であったのであろう。何の記録もされないまま壊されてしまって、名もつけられず忘れさられてしまっている。そこで、この古墳があった尾根の名をとって、今後、八州嶺古墳とよぶことにしたい。
精常園の経営者であった故別所彰善が在職中に採集した遺物のなかに、万籟山古墳やその付近の古墳から出土したと伝えるもの一〇点がある。四獣鏡一面、捩文(ねじもん)鏡一面、碧玉製石釧五個、碧玉製変形琴柱形(ことじがた)石製品一個、鉄鏃一本、金環一個がそれで、いま京都国立博物館に保管されている。
四獣鏡は鏡背の文様がひじょうに不明瞭で、四つの獣形が四葉文座鈕をめぐり、平素縁との間に斜行櫛歯文帯のあるのが、かろうじてみえる程度である。鈕孔の周縁もかなりまるみを帯びていることから、あるいは中国製の四蟠文(しちもん)鏡が伝世によって磨滅したと考えることも不可能ではない。しかしその銅質があまりよくなく、大きさに比べて重いので〓製鏡とみてよかろう。鈕の状態、文様の磨滅したような感じは技術のつたなさによるものであろう。もっとも〓製鏡とはいっても、中国鏡から型をとってつくった踏みかえし品である可能性がじゅうぶんある。捩文鋺は四組の捩文が、うずを巻くような形で紐をめぐっている。捩文の外に二列の外向鋸歯文帯があり、鈕孔は鋳放しのままである。また銅質も悪く、明らかに〓製鏡である。
石釧五個はそれぞれ形態や文様を異にし、なかには車輪石との中間形式とでもいうべきものを含んでいる。変形琴柱形石製品は、かつて十字形石製品と報告されたもので、今まで述べてきた碧玉製品のなかでは比較的質がよい。上下端に孔があるが、貫通していない。特異な形をした琴柱形石製品と考えるべきであろう。鉄鏃は切先が三角形で鈍い逆刺(かえり)があり、箆被(のかつぎ)を経て茎(なかご)にいたる。茎は桜皮による葛巻(くつまき)が残っている。金環は鉄を芯(しん)にしてそのうえに金銅をかぶせたものである。
これらのうち、四獣鏡と石釧のあるものは、万籟山古墳から出土したと伝えられている。残りは付近の古墳ということになるが、とくに碧玉製品は、八州嶺古墳から出土したとみてなんら問題はない。また捩文鏡も八州嶺古墳の時期にあってよいものである。ただ金環は付近一帯にある後期の群集墳の一基から出土したものであろう。
以上述べてきたことから、八州嶺古墳と万籟山古墳は円墳と前方後円墳というちがいはあるが、ともに竪穴式石室を主体とし、副葬品のなかに碧玉製腕飾類をともなう前期古墳といえる。ごく近い場所に両者がつくられているので、同一の系列にある首長墓と考えられるが、これだけではその前後関係はわからない。両古墳から平野部への眺望を比較すると、高所にある八州嶺古墳より、南へ突きでている万籟山古墳の方がすぐれている。はじめに尾根の最高所に古墳を営んだが、その後勢力を増して、西摂平野を一望のもとにおさめるような位置に進出した、すなわち八州嶺古墳→万籟山古墳という順に営まれたのであろうか。それともこの想定とはまったく逆に、勢力を失って、八州嶺の方へ後退したのかもしれない。これを検討するためには、よりひろく西摂平野一帯の古墳をみる必要があろう。