表六甲の前期古墳

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呉田求女塚古墳(神戸市東灘区住吉町)は海岸に近い平野部にあり、もとは西面した前方後円墳であったと推定される。内部構造としては木棺の破片らしいものが残っており、板石の存在も伝えられていることから、竪穴式石室であったと思われる。副葬品には、鏡六面と碧玉製車輪石一個が残されている。鏡はすべて中国製で、内行花文鏡一面、画文帯神獣鏡一面、三角縁神獣鏡四面と報告されている。三角縁神獣鏡のうち、天・王・日・月・獣文帯三神三獣鏡は、福岡県筑紫野市武蔵の原口古墳出土の鏡および福岡県久留米市御井町の高良(こうら)神社所蔵の鏡と同笵である。

写真66 呉田求女塚古墳の三角縁神獣鏡
(東京国立博物館所蔵)


 呉田求女塚古墳の北北東にあるヘボソ塚古墳(神戸市東灘区岡本)は、六甲山の南麓で、阪急岡本駅の南側にある西北西に面した前方後円墳で、現存の長さおよそ六四メートル、後円部の径三一~三三メートルを測る。墳丘はおそらく二段築成になっていたと推定できる。内部構造は後円部の中央付近に扁平な割石が残存しているので、竪穴式石室であろう。出土遺物は散失したりして完全には残っていないが、玉類では勾玉二個、管玉一三個、小玉一二一個、棗玉(なつめだま)一個、それに鏡六面、碧玉製石釧二個がある。この鏡もすべて中国製で、三角縁神獣鏡二面、〓鳳鏡(きほうきょう)・画文帯環状乳神獣鏡・平縁式二神二獣鏡・獣帯鏡各一面である。二面の三角縁神獣鏡のうち、日・月・天・王・唐草文帯二神二獣鏡は、京都府長岡京市の長法寺南原古墳(二面)、同綴喜郡八幡町の西車塚古墳、奈良県北葛城郡河合町の佐味田宝塚古墳、岐阜県不破郡赤坂町の長塚古墳、同海津郡南濃町の円満寺山古墳、愛知県犬山市の瓢箪塚古墳から出土した鏡と同笵で、三角縁神獣鏡のなかでは、もっとも多い八面の同笵鏡をもっていることになる。しかしこの八面も、文様を詳細に検討すれば、二つのグループにわかれるという。他の一つの唐草文帯二神二獣鏡は、加古川市の日岡東車塚古墳の鏡と同笵である。また碧玉製石釧のうち一個は、類例の少ない無文のもので、香川県高松市の石清尾山(いわせおやま)猫塚古墳、京都府綴喜郡八幡町の茶臼山古墳、奈良県北葛城郡広陵町の新山古墳など、四世紀後半の古墳から確実な出土例が知られている。

写真67 ヘボソ塚古墳の石釧(東京国立博物館所蔵)


 ヘボソ塚古墳から東北東約四キロメートル、六甲山南麓の台地端に、親王塚古墳(芦屋市翠ケ丘町)がある。さきの二古墳と異なり、径一八メートル内外、高さほぼ二・七メートルの円墳と考えられ、元禄年間に銅鐸・銅鏡・石帯を得たと伝える。このうち銅鐸が古墳時代のものでないことは明らかである。そのとき得た鏡一〇面のうち、四面は三角縁神獣鏡であるが、他の六面については明らかでない。そのうちもと吉田家所蔵の四神二獣博山炉鏡は、中国鏡であり、円圏座鈕をめぐり、右むきの魚形四個が鋳出されており、博山炉のところに「陳孝然作竟」の銘がある。さらに三角縁の内側斜面には、外向鋸歯文帯があるなど他に類例がなく、三角縁神獣鏡のなかでは特殊なものである。親王寺所蔵の鏡のうち波文帯三神二獣博山炉鏡一面は、広島県芦品郡駅家町の掛迫古墳、奈良県北葛城郡河合町の佐味田貝吹古墳、岐阜県海津郡南濃町の円満寺山古墳の鏡と同笵である。なお石帯は後世のものが混入したのであろう。
 これら三古墳の立地する自然地形をみると、北は六甲山をひかえ、南は海にのぞんでいて、東西に帯状に延びる地域である。そしてその東方に武庫川・猪名川による沖積平野がひろがる。表六甲の古墳はこの帯状に細ながい地域の東部にあって、六甲山南麓に東西にならんでいることから、海岸沿いの陸上交通、あるいは水上交通の要衝に勢力をもっていた首長たちの墳墓と推定される。当時の大和政権にとって、このルートは遠く朝鮮や中国にまで通じる重要なルートであった。三角縁神獣鏡がこれら三古墳から出土しているのも、この点と深くかかわっている。
 この三古墳よりまえの時期の古墳は認められず、前期とくに四世紀後半になってはじめて古墳があらわれたといえる。五世紀の大和政権を河内王朝とする考えにたてば、応神天皇にはじまる河内王朝は、四世紀後半に胎動する。この畿内中枢部での動きに対応して、この地域でも古墳がつくられたとみるべきであろう。この四世紀後半は大和政権が朝鮮に対して軍事行動を起こした時期でもあって、大和政権にとって瀬戸内の陸海両道を掌握することは重大な意義があった。三角縁神獣鏡などがこの時期以前にこの地域にもたらされたのは、すでに重要な地域として認識されていたわけであろう。高地性遺跡がこの地域一帯にならんでいることも、それを如実に物語っている。
 すでにふれたが、司祭者のうえに立った首長が古墳をつくるようになるには、一つの飛躍がなければならなかった。その契機として、このようなことがあったのではなかろうか。
 ところが、これら三古墳につづく古墳は現在のところ明らかでない。それではなぜ古墳がつくられなくなったのであろうか。そこで四、五世紀における西摂平野の古墳を総合的にみてみる必要がある。