親王塚古墳から東、西摂平野の海岸から中央部にかけて古墳がつくられるようになるのは中期になってからである。河川の氾濫など自然条件のほかに、この地域を掌握しうるほどの力をもった首長があらわれていなかったことを、その理由と考えてもよかろう。
前期後半の古墳が立地するのは西摂平野北部の尾根上などである。宝塚市では、はじめに述べた平野部の安倉高塚古墳、尾根上にある万籟山古墳・八州嶺古墳がそれである。猪名川東岸では、箕面川との間の五月山(さつきやま)丘陵に、池田茶臼山古墳・娯三堂(ごさんどう)古墳がある。
池田茶臼山古墳(池田市五月丘)は、五月山の南麓につづく丘陵の支丘の鞍部(あんぶ)に立地する前方後円墳である。前方部を南東にむけ、全長およそ六二メートル、後円部の径三三メートル、高さは後円部五・六メートル、前方部三・五メートルでその差は二・一メートルとなる。しかし傾斜地につくられているため、他の前期古墳にもよくみられるように、じっさいには、その差が三・九メートルとなる。後円部のほぼ中央に、長さ六・三五メートルの竪穴式石室が墳丘の主軸と直交して検出され、底には猪名川から運ばれたらしい礫(れき)がしきつめられていた。数回に及ぶ盗掘のため、副葬品はわずかしか検出されていないが、そのなかに石釧のあることに注目したい。後円部の竪穴式石室のほかに埴輪円筒棺が検出されているが、竪穴式石室の被葬者と埴輪円筒棺の被葬者たちは、主従関係にあったのではないかといわれている。
娯三堂古墳(池田市綾羽)は、古く円山古墳といわれていたように円墳である。五月山の中腹、標高一〇五メートルの尾根上に築かれたこの古墳は、径三〇メートル、高さ五メートルで、墳頂には長さ六・一メートルの竪穴式石室がある。副葬品には画文帯神獣鏡一面、碧玉製石釧一個が含まれている。竪穴式石室の構造および規模を考えると前期古墳といえよう。
猪名川をさかのぼっていくと、東から久安寺川が合流する。合流点の南東、池田市古江町の裏山にあたる横山で発見されたと伝える鏡が、池田市の伊居太(いこた)神社にある。三角縁神獣鏡の破片であるが、鋳あがりのよさから中国製と考えられる。この鏡が伝えられているとおり横山で発見されたとすれば、このあたりが地形的に一つのまとまりをしめしていること、さらには猪名川をさかのぼって多田に入る交通の要衝にあたることが、三角縁神獣鏡がもたらされ、また古墳がつくられた要因ではなかろうか。この幻の古墳が、池田茶臼山古墳や娯三堂古墳に先行する可能性はじゅうぶんある。
千里丘陵から西へ派生した丘陵の尾根上や丘陵端には、北に待兼山(まちかねやま)古墳、南に御神山(みかみやま)古墳の二基の古墳がみられる。
待兼山古墳(豊中市柴原町)は、大阪大学の北、待兼山の北縁の南北に走る尾根上にあり、南面した前方後円墳であったと推定されている。内部構造は不明だが、ここからは〓製の平縁式三神三獣鏡一面と碧玉製腕飾類が出土している。そのなかで鍬形石の一個は破片であるが、下端に穿孔(せんこう)が認められる。おそらく補修してつなぎあわせたさいの孔であろう。この事実からも碧玉製腕飾類が貴重視され、宝器としての性格をもっていたと考えられる。
御神山古墳(豊中市蛍池南町)は刀根山(とねやま)丘陵の先端にあたり、東北に面した前方後円墳で、現在そのくびれ部を阪急電車と国道が通っていて、後円部は住宅になっている。復原すると西摂平野最大の前方後円墳となるであろう。内部構造についてはまったく不明だが、副葬品としては、〓製の三角縁神獣鏡一面、碧玉製車輪石二個が出土している。
以上が西摂平野の前期古墳と考えられるものである。つくられた時期はいずれも前期後半(四世紀後半)と推定されるが、六甲山南麓の三古墳とは異なり、この六古墳はすべて尾根あるいは丘陵という自然の地形を利用してつくられており、古墳築造のきっかけもすこしちがっているようである。六甲山南麓の三古墳は、その立地からみて、とくに瀬戸内海の水上交通を意識したものであった。これに対し上記六古墳と安倉高塚古墳は、すこし様子が異なるようである。
まず安倉高塚古墳は、昭和四十七年(一九七二)から翌年にかけておこなわれた周辺の坪掘り調査によって、周囲に水田に適すると考えられる灰色土壌が確認されたことから、そこに、ある程度の生産基盤が考えられよう。また、古墳のある一帯は、武庫川東岸の洪積台地のなかでも、やや高くなっていることも事実である。あるいは、そこを中心として比較的せまい範囲で一つにまとまっていたのかもしれない。沖積平野の中央部に進出するほどの勢力もなく、まず奥の方から開いていったのであろう。昆陽池(こやいけ)陥没帯を境にして、西摂平野の北半部は、長尾山系から流出する河川によって、つねに冠水する危険性をはらんでいた。このような状況のなかで、中筋から安倉にかけてのわずかな高まりに古墳が立地している事実は、そこが早くから人びとの生活空間に選ばれていたと考えることによって、はじめて納得できよう。前期古墳の竪穴式石室には、ふつう扁平な割石を用いてつくっているのに、安倉高塚古墳では、近くの武庫川の河原石を使っている。これは、単に近くの石材を用いたというだけではなく、まだ西摂平野に進出できる力をもっていなかったことを物語っているのであろう。
一方、万籟山古墳と八州嶺古墳は、西摂平野を一望におさめる景勝地にあり、猪名川を境にして、対岸の池田茶臼山古墳・娯三堂古墳と、勢力を二分しているかの感がある。また池田茶臼山古墳と万籟山古墳は、出土した埴輪を比べても、ほぼ同じころにつくられた古墳である。ところで、平野の北部はすでにみたように、農耕に不適当であり、弥生時代から古墳時代にかけての集落は、尼崎の海岸近くに認められるので、あるいはこの集落を支配した首長達の墳墓と考えることもできる。しかし、はたして、それほど広範囲にわたる勢力をもっていたのであろうか。
従来、古墳をつくる経済的基盤としておもに稲作を考える傾向にあったため、西摂地方でも、とかく南部の平野に目をむけがちであった。これに対して八州嶺古墳の石室天井石がすぐ近くの石切山から運ばれてきたらしいという点は、じゅうぶん注目されなければならない。武庫川とちがって穏やかな猪名川は、交通路や輸送路としてさかんに利用されたであろう。山やまに茂る樹木を伐採して猪名川に流したり、狩猟にはげむという生活を営んでいた人びとがいたとしてもふしぎではない。万籟山古墳や八州嶺古墳にそのような人びとのうえにたつ首長が葬られたのかもしれない。山を生産の基盤として勢力をたくわえた首長が、さらに南の西摂平野へ進出しようとした姿を、今の古墳の立地にみいだすことはできないだろうか。
対岸の池田茶臼山古墳や娯三堂古墳についても同じことがいえるかもしれない。しかしこの場合は伊居太神社所蔵の鏡を出土した古墳が想定でき、それが二古墳に先行する可能性も考えられる。はたしてこれは猪名川上流から進出してきたのであろうか。池田茶臼山古墳・待兼山古墳・御神山古墳からは、弥生時代から古墳時代につづく宮ノ前遺跡をはじめ、田能遺跡・勝部遺跡・大阪空港遺跡など平野の著名な諸遺跡を望むことができる。弥生時代の西摂平野にあって、もっとも中心的であった地の東と北に、このような古墳がつくられたということは、平野部における生産力との直接的なつながりをしめすものであろう。
これら七古墳には、六甲山南麓の三古墳ほど交通の要地としての重要性は認められない。したがって大和政権との関係においても、六甲山南麓の三古墳ほどの緊密さはなかったであろう。むしろ在地の生産力を背景とした勢力の伸張が、古墳を築くことのできるようになった直接の要因であったと考えたい。