中期の古墳

238 ~ 241 / 532ページ
四世紀も終わりに近づくと、それまで竪穴式石室でおおって保護していた木棺を、粘土で包んで土中に安置する粘土槨(ねんどかく)が広く用いられるようになる。竪穴式石室を簡略化しようとしたものであろう。また、組合式木棺のゆきわたるのもこの時期で、木棺をまねて石棺をつくることもはじまった。
 香川県綾歌郡綾歌町の快天山(かいてんやま)古墳では、割竹形石棺が使われており、大阪府柏原市国分市場の松岳山(まつおかやま)古墳には、主として五世紀代に用いられる長持形石棺に先行するような組合式石棺が、竪穴式石室におさめられていた。
 大型の石材を使った石棺が、このころになってつくられるようになったのは、新しい技術が入ってきたためであろう。このような変化は、埋葬施設だけでなく、副葬品にもあらわれ、前期と中期の境目をここにみることができる。こうした変化は、前方後円墳の立地や形態にも起こる。それは築造技術の変化でもあった。傾斜地という自然地形を利用してつくっていた古墳は、平坦地にも移り、壮大な墳丘のほとんどが盛土でつくられるようになる。そのために実に多数の人びとが動員されたことであろうし、作業全体を進めてゆくうえには、測量や築堤などの新しい土木技術が導入されたであろう。前方後円墳が平坦地につくられるようになると、傾斜地につくられたころとちがい、前方部と後円部の基底面の高さの差がなくなり、外観上は前方部と後円部がほぼ同じ高さになる。さらに、墳丘の周囲に濠が掘られ、祭祀の場としての前方部の機能はまったく失われ、墳丘全体が濠によって周囲から隔てられてしまった。粘土槨や石棺の出現は埋葬施設が多様化していくことをしめし、同時に石工技術が新しくもたらされたことを思わせる。

図59 中期古墳の副葬品
1~3 産土山(京都),4~10 カトンボ山(大阪),11 七観(大阪),12~14・17・18・22 アリ山(大阪),15・16 馬場ノ内(京都),19・24・26 随庵(岡山),20・21 五条猫塚(奈良),23・29 新開(滋賀),25 紅葺山(大阪),27 黒姫山(大阪),28 西小山(大阪),30 大谷(和歌山)