この時期にはじめてあらわれる副葬品の一つに馬具がある。応神陵陪冢(ばいちょう)の丸山古墳から出土した金銅製の龍文透彫鞍金具(りゅうもんすかしぼりくらかなぐ)は、もっとも古い例の一つであろう。五世紀中葉の履中陵陪冢の七観古墳からは、木心鉄板張輪鐙(もくしんてついたばりわあぶみ)・鞍金具などが、同じ時期の滋賀県栗太郡栗東町の新開(しんがい)第一号墳からは、木心鉄板張輪鐙・龍文透彫楕円形鏡板(かがみいた)などが出土している。いずれも杏葉(ぎょうよう)をともなわない。允恭陵陪冢の長持山古墳では、木心鉄板張輪鐙・f字形鏡板・剣菱(けんびし)形杏葉・鞍金具が出土している。これらの馬具はいずれも輸入品と考えられているものである。五世紀も終わりに近づくと、わが国でも馬具をつくるようになったと思われるが、この時期にもなお新しい形式の馬具がひきつづき輸入されている。楕円形の鏡板と杏葉とを一組にしたものがそれである。また部分的に鉄板で補強した木製の壺鐙も、このころから用いられている。わが国で製作された馬具としては鋳銅製の鈴付鏡板と鈴杏葉がある。六世紀中葉には、鐘(かね)形の鏡板と杏葉が流行した。六世紀後半から七世紀にかけては、棘葉(らつよう)形杏葉に代表される形式や、ハート形の鏡板と杏葉が輸入され、その後も、唐草文・龍文・鳳凰(ほうおう)文などで装飾された杏葉などが輸入された。いっぽうこれら輸入品と平行して、それをまねた国産の馬具も用いられた。金銅を使った華麗な馬具が多いが、金銅製品が盛行するのも、中期以降である。
図60 古墳時代の馬具(模式図)
1・2 築山(岡山) 3 上野(茨城) 4 鴨稲荷山(滋賀) 5・6 志段味大塚(愛知) 7・8 寿命王塚(福岡) 9 南塚(大阪) 10 沖ノ島(福岡) 11 蓼原(神奈川)