平野南部に古墳がつくられる

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中期になると西摂平野南部にも古墳がつくられるようになる。尼崎市水堂古墳は武庫川の東にある南面した前方後円墳で、今は須佐男(すさのお)神社の境内となっている。昭和三十七年(一九六二)に発掘調査がおこなわれ、後円部の粘土槨から三角縁神獣鏡などの副葬品が発見された。この三角縁神獣鏡は中国製で、四乳の間に東王父・西王母を含む三神四獣を配し、その外側に「吾作明竟……」ではじまる二一字からなる銘文がある。一字ごとに間に◎を入れている点で他に例をみない。鉄斧のうちの一点は短冊形で、この形式は前期古墳から出土することが比較的多い。全国の出土状況からみて、出土例の下限を五世紀でも古い時期に求められるものである。また竹櫛(たけぐし)は前期古墳からも出土するが、中期に近い年代以降の古墳から出土するものである。したがって、水堂古墳の出土遺物には、鏡に代表されるように前期的な性格が濃厚にみられる。中期でも前期に近い時期につくられたものであろう。なお、胡〓(ころく)として報告されているものは、袋部の底径一五センチメートルを測り、長さは約五〇センチメートルと推定されている。これまで、胡〓は五世紀中葉以降の古墳で、袋部の金具の部分が発見されている。本例のように金具のない場合は、胡〓か靱(ゆき)か断定しかねるが、靱とすればこの時期にあって矛盾はない。
 西摂平野の南部で、水堂古墳につづくと考えられる古墳は、現在のところ明らかにされていない。