五世紀中葉以降、西摂平野の中期古墳は、桜塚(豊中市)と塚口(尼崎市・伊丹市)の二地域に集中する。
桜塚古墳群は千里丘陵西部の洪積台地上にあり、大正年間の『諸墳略図面書上』などによると、前方後円墳五基・帆立貝式古墳一基・方墳一基・円墳二九基からなる中期の古墳である。計三六基のうち、外部施設としての埴輪や、副葬品が検出されているのは一〇基たらずである。なかには径一・八メートルとか、高さ〇・六メートルと伝えるような古墳もあり、自然の高まりや、かつて祠堂(しどう)があったため高くなっているというようなものまでも含まれていたのではなかろうか。したがって、さきの副葬品等の判明している古墳に、群の西端にあって南北にならぶ大石塚・小石塚の二つの前方後円墳などを加えた十数基が、いわゆる「桜塚三十六塚」の実態であろう。しかしそれも今は市街地化にともなう区画整理や住宅建設のため、わずかに数基を残すのみとなっている。
発掘調査により副葬品が知られているのは、狐塚古墳(第26号墳)・北天平塚古墳(第27号墳)・南天平塚古墳(第28号墳)である。桜塚古墳(第21号墳)からは〓製六獣鏡、荒神塚古墳(第22号墳)からは金銅製帯金具の出土が伝えられている。また、女塚古墳(第31号墳)では、民家を建てるさいに検出された遺物が一括して残っている。
狐塚古墳は、西面する前方後円墳ではなかったかと推定されているが、確証はない。革製漆塗りの盾(たて)が完全な形で発見されたことで有名である。内部構造は二つの粘土槨を東西に一直線にならべたものともいわれるが、あるいは、一つの粘土槨であったのかもしれない。おもな副葬品は、武具と馬具で、刀剣・鉄矛・鉄鏃・短甲・衝角付冑・鞍・轡(くつわ)・鐙および〓製鏡などがあり、粘土槨の両側には、三面の盾がおかれていた。
北天平塚古墳は、復原すると径二一メートル余、高さはおよそ四・五メートルあり、幅七メートルあまりの周濠がめぐる円墳である。埋葬は二次にわたっておこなわれている。第一次の埋葬施設は不明であるが、それにともなう遺物は、直刀・鉄矛・短甲(五領)・衝角付冑・鉄地金銅張眉庇付冑・馬具残欠などのほか、革製漆塗り盾五面であった。第二次埋葬は粘土槨で、すでに盗掘にあっていたらしく、直刀・鉄鏃・短甲片・小札残片・鉄斧などが出土したにとどまる。
南天平塚古墳は、全長二八メートル、後円部径二一・五メートル、高さ約四メートルで、北西に面する帆立貝式古墳である。後円部の南東側に突出部があり、後円部をめぐる円筒埴輪列は、そこだけ直線にならべられ、その端から突出部にも円筒埴輪列が延びていた。主軸に平行して東西に並置して割竹形木棺二個が、埋葬施設としてみられる。このうち一号棺はコウヤマキでつくられ、同じ形の蓋と身をあわせてかすがいでとめたもので、身の両端に溝が穿(うが)たれ、そこに円形の木板をはめこんでいた状態がよく残されている。板材の組みあわせかたがよくわかるほど保存の状態のよいのはめずらしいことである。一号棺のなかからは、〓製六獣鏡・刀剣・鉄鏃・三環鈴・短甲が発見された。二号棺では、〓製方格規矩鏡・刀剣・鉄鏃・短甲・衝角付冑が棺内から発見され、棺外では、蓋のうえに革盾の痕跡がみられ、木棺両端の外方に鞍・鐙・轡・杏葉などがあり、ほかに鉄槍と弓数張がおかれていた。
女塚古墳は、径二五メートル前後の円墳であったと思われる。発掘調査によるものではないが、〓製六獣鏡・刀剣・鉄鏃・鉄矛・短甲・眉庇付冑・小札・轡などの遺物が出土した。なかでも小札は鉄に金銅板をかぶせており、例の少ないものである。破片を含めて十数点しかなく、これらが挂甲を構成していたと断定はできない。
これら四古墳にみられる共通点は、武具と馬具が副葬品の中心になっていることである。馬具は中期以降の古墳から出土し、古い時期のものは輸入品ばかりである。わが国でつくられるようになるのは、五世紀でも終りに近い時期と考えられる。他方、中期古墳からは多量の鉄製武器の出土する例が多い。しかもそのなかに甲冑など大型の鉄製品を含むこともある。このことは、前方後円墳だけでなく、小さな円墳にもみられる。このような事実の背景には、大和政権によって古墳築造に対する何らかの規制がなされたのではないかというみかたがある。