古墳の規制

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古墳時代から大化にかけて、各地の首長たちは、古墳の築造にあたって、大和政権から五次にわたる規制をうけた。第一次の規制は五世紀前半、第二次は五世紀後半のある時点に、第三次は六世紀中葉に、第四次は六世紀末から七世紀初頭にかけて、そして第五次はいわゆる大化の薄葬令(はくそうれい)にあたる。ここでは五世紀に限ってふれてみると、第一次規制は仁徳朝を中心とし、つぎの第二次規制は雄略朝にあたる。この時期に各地の首長たちは前方後円墳の築造を規制された。その結果、各地で築造された古墳の形で、もっとも特徴的なのが、帆立貝式古墳である。もとより円墳や方墳もふくまれる。前方後方墳にあっても前方部の縮小されたものが認められる。第一次と第二次の間の、規制のゆるんだ五世紀中葉には各地で前方後円墳がつくられた。
 この考えは古墳の編年指標になるとともに、大和政権(五世紀に限れば河内王朝)と各地の首長との相対的な力関係の推移をしめすものである。もっとも五世紀の円墳すべてが規制の時期のものとは限らない。規制のみられる時期には、大王陵のような例外的なものを除いて、前方後円墳はつくられなかったとみるべきであろう。
 こうしたみかたによれば、桜塚古墳群は、墳形や出土遺物から、第二次規制を中心として、五世紀中葉から、五世紀の終わりにかけてつくられた古墳群と考えることができるだろう。これは大塚古墳(第23号墳)から出土した埴輪のしめす時期とも矛盾しない。