猪名川西岸の塚口古墳群

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桜塚古墳群に対し、猪名川をはさんで西には塚口古墳群がある。阪急塚口駅を中心とする一帯にあり、前方後円墳の池田山古墳・御園(みその)古墳・園田大塚山古墳・伊居太古墳、帆立貝式古墳の御願塚(ごがづか)古墳その他からなる。その分布は桜塚古墳群とは異なり、比較的散在した状態である。
 池田山古墳(尼崎市塚口)は阪急塚口駅の北東にある工場敷地内にかつてあった南西に面する前方後円墳で、全長ほぼ七一メートル、後円部の径はおよそ五二メートルと推定される。墳丘には埴輪をめぐらしており、あるいは周湟(しゅうこう)があったのではないかと思われる痕跡があった。内部構造は明らかでないが、栗石積みの竪穴式石室ではなかったかと思われ、その規模も前期古墳のように長大なものではなかったようである。副葬品は鏡三面分と刀剣・鉄鏃などである。鏡は内行花文鏡一面が〓製鏡ではないかとも思われるが、他は中国鏡である。一面は平縁式二神二獣鏡と推定され、他の一面は破片で詳細は不明であるが、画像鏡である。ところで画像鏡には同笵鏡のあるものも含まれており、わが国ではおもに五世紀後半の古墳から出土しているので、この古墳も五世紀後半につくられたのではないかと考えられよう。また墳丘の一部で「陶質破片」を採集したと伝えられるのも、すでに須恵器のあらわれている五世紀後半という年代観と一致する。
 御園古墳(尼崎市御園)は全長約六〇メートルの東面する前方後円墳で、いま墳丘は墓地になっている。昭和八年(一九三三)に後円部から石棺が発見された。その蓋石(ふたいし)は縄掛突起(なわかけとっき)のある扁平なもので、長持形石棺の系譜関係のなかでとらえることはむずかしい。石棺にともなって出土した須恵器により、いちおう五世紀後半という年代が与えられそうである。
 猪名寺廃寺の南西にある園田大塚山古墳(尼崎市南清水)は、天狗塚(てんぐづか)古墳ともよばれている。全長ほぼ四二メートル、後円部の径一八メートルの北面する前方後円墳である。昭和十二年(一九三七)から翌十三年の発掘調査で、豊富な副葬品が発見され、墳丘には埴輪と葺石がみられた。後円部にコウヤマキの木棺を包んだ粘土槨があり、五鈴鏡・直刀・玉類などが発見された。その南に主軸と直交して土壙を穿ち、礫と木炭でつくった埋葬施設が検出された。副葬品は直刀・槍身・鉄鏃・鉄鋸(のこぎり)・鉄斧・鉄鎌などの武具・農工具と、鞍・鐙・轡・杏葉・雲珠(うず)・〓具(かこ)・飾金具などの馬具である。土壙の一~二メートル南には須恵器がならべられており、その場所で被葬者に対する祭祀がおこなわれたことを物語っている。馬具類には木製の鞍の一部に用いられた金具が残っており、もと鉄地金銅張であったと思われる。鐙は木心鉄板張の壺鐙である。轡では銜(はみ)・引手(ひって)・鏡板がある。鏡板は楕円形で、一種の忍冬文(にんどうもん)で飾る鉄地金銅張のものである。杏葉も鏡板と同じ形と文様で、やはり鉄地金銅張である。これらの馬具によってみれば、園田大塚山古墳は、六世紀前半のそれもあまり古くない時期につくられたものであろう。
 伊居太古墳(尼崎市下坂部)は伊居太神社の境内にある全長九二メートル、後円部径ほぼ五三メートル、幅およそ二〇メートルの周濠をもつ前方後円墳である。南西に陪冢と思われる白馬塚・サムライ塚とよばれる二基の円墳がある。後円部頂はすでに破壊され、埋葬施設などはわからないが、墳形や須恵器片の出土から中期の古墳と考えられる。あるいは塚口古墳群のなかでは最初につくられた古墳かもしれない。
 御願塚古墳(伊丹市御願塚)は阪急稲野駅の北西にある西面する帆立貝式古墳である。全長五二メートル、後円部の径三九メートルで、周囲に濠がめぐらされている。昭和四十四年(一九六九)に周辺の整備工事がおこなわれ、そのさい埴輪が採集されている。墳形と埴輪からみて、五世紀後半につくられたと推定しうる。
 ここで塚口古墳群にも「古墳の規制」というみかたを適用すれば、墳形や知られている出土遺物から御願塚古墳は五世紀後半の第二次規制の時期に、園田大塚山古墳は六世紀中葉の第三次規制より前の六世紀前半につくられたことになり、御願塚古墳をはさんで、伊居太古墳・池田山古墳・御園古墳がつくられたと考えられる。
 猪名川を間にして東西に位置する桜塚古墳群と塚口古墳群は、ともに五世紀後半を中心に形成されているのに、その内容にちがいがみられる。桜塚古墳群は、古墳群内での分布の様子から、二ないし三系列の首長墓の集まりと考えられるのに対し、塚口古墳群は、一系列の首長墓の集まりとみられる。これはどのように理解したらよいのであろうか。