図62は西摂平野のおもな前期古墳と中期古墳の分布図である。御神山古墳と親王塚古墳を結ぶ線を境に、北西部に前期古墳が、南東部に中期古墳が分布しているといえそうである。
西摂平野の前期古墳は、前期の後半のほぼおなじ時期にあい前後してつくられたと考えられる。六甲山南麓地帯の古墳の経済的基盤は、平野部がせまいため、稲作による収穫に限度があった。しかし瀬戸内ルートをおさえる重要な位置であるため、大和政権の方から各首長に対して積極的に結びつきを求めていったのであろう。それゆえこの地に古墳がつくられた。ところがひとたび瀬戸内海のルートを確保し、それを通じて勢力の拡張に成功した大和政権にとっては、もはや各地の首長たちに積極的に結びつきを求める必要はなくなった。むしろ「古墳の規制」にみられるように、各地の首長たちを圧迫していったとさえ考えられる。この段階になって、生産力の限られた六甲山南麓において、前期古墳に葬られた人びとの子孫たちは、あるいは住みなれた地を去って、より広い平野部の開拓に進出していったのだろうか。それともその地にとどまったまま、もはや古墳をつくるほどの力をもつことができず、勢力はおとろえていったのだろうか。西摂平野にみられる中期古墳のなかには、五世紀前半の第一次規制の時期の古墳は認められない。それは、この一帯が西の地域に対する大和政権の玄関とでもいうべき位置にあるため、大和政権により完全に掌握されたからではなかろうか。その強力な支配は、首長が古墳をつくることもできないほど徹底したものであったと想像される。
五世紀の中葉に塚口古墳群の形成がはじまる。のちにふれられるように、渡来系の技術者集団である猪名部の中心は、この地にあったと考えられている。塚口古墳群は、この渡来した集団の首長墓としてつくられたのではなかろうか。猪名部は、木工関係の技術者たちの集まりと考えられているが、古墳に副葬されることの少ない鉄鋸が園田大塚山古墳から出土しているのも、こういうみかたと関連してくるのではなかろうか。塚口古墳群では、六世紀になっても園田大塚山古墳がひきつづきつくられている。全長をしだいに縮小しながらも、基本的には前方後円墳がつくられていったのは、有力な単一の首長墓系列であったためであろう。
他方、桜塚古墳群は二ないし三系列の首長墓の集まりと考えられているが、あるいはそれよりも多いかもしれない。桜塚古墳群のつくられるのも、規制のゆるんだ五世紀中葉にはじまる。前期後半の尾根上や丘陵先端の古墳に葬られた首長たちの子孫は、五世紀前半の第一次規制の時期に得た経験から、連合して大和政権の支配に対応していったのではなかろうか。そして規制のゆるんだ五世紀中葉には、再び前方後円墳をつくることのできるほどに勢力を盛りかえしたのであろう。一カ所に首長墓が集まったのは、各首長が連合していた結果だと考えられる。しかもことさら桜塚の地が選ばれたのは、多分に新興勢力の首長墓群としての塚口古墳群を意識していたのかもしれない。桜塚古墳群の実態が十数基というさきの推定も納得できよう。副葬品に大量の鉄製武器類が認められるのも、単にその時期の傾向というだけでなく、大和政権にとっても、これらの勢力が無視することのできない存在であったためであろう。
五世紀末に大和政権(河内王朝)が衰退すると、桜塚には古墳がつくられなくなる。それは対大和政権ということで成立しえた連合が崩壊したからだと思われる。その後の古墳は、雲雀丘(宝塚市)をはじめ、野畑(豊中市)など各地に分散し、それぞれの地に集中してつくられてゆくようになる。いわゆる群集墳の時期をむかえる。